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12月19日(火)全学礼拝―鄭鎬碩先生(賛美歌BGM付)

2023.12.19
文書礼拝

奨励者:鄭 鎬碩(政治経済学科教授)

旧約聖書:ミカ書 第4章3~7節(新共同訳)P.1453

「主は多くの民の争いを裁き

 はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。

 彼らは剣を打ち直して鋤とし

 槍を打ち直して鎌とする。

 国は国に向かって剣を上げず

 もはや戦うことを学ばない。

 人はそれぞれ自分のぶどうの木の下

 いちじくの木の下に座り

 脅かすものは何もないと

 万軍の主の口が語られた。

 どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。

 我々は、とこしえに

 我らの神、主の御名によって歩む。

 その日が来れば、と主は言われる。

 わたしは足の萎えた者を集め

 追いやられた者を呼び寄せる。

 わたしは彼らを災いに遭わせた。

 しかし、わたしは足の萎えた者を

 残りの民としていたわり

 遠く連れ去られた者を強い国とする。

 シオンの山で、今よりとこしえに

 主が彼らの上に王となられる。」

 

奨励:足の萎えた者の平和

 

 

 戦争のニュースが後を絶たない日々です。聖書は、こうした人間の争いについて、どのようなヴィジョンを示しているのでしょうか。

 本日の聖句は、この問いかけに対する一つの答えです。預言者のミカは、「終わりの日」、すなわち、国や民族の間での戦争が全て終息した時の状況について語っています。そこではまず、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」というイザヤの言葉が引用されており、これこそ、剣や槍を直して鋤や鎌にしてしまっても心配ない、つまり、もはや武器など要らない時代になったことが示唆されます。なるほど、そうした平和への願いを込めて、人びとがこの言葉をニューヨーク国連広場の壁に刻んでおいた所以も、よく理解できます。

 ただ、私が注目したのは、次に出てくる「足の萎えた者を集め、追いやられた者を呼び寄せる」という箇所です。すなわち、「終わりの日」において集められるのは、戦場で功績を挙げた者ではありません。戦争では役立たずと言われたはずの、体の不自由な人々、病者、負傷者、あるいは捕虜など、社会から追放された「のけ者」たちこそが「呼び寄せ」られ、「残りの民」として大事にされるのです。

 さらに、「足の萎えた者」と言えば、『創世記』のヤコブを思い出さずにはいられません。ヤコブは、兄のエサウから長子としての権利を騙し取り、故郷を離れていました。彼はようやく帰郷することになりますが、故郷に着く前日の夜に何物かと夜明けまで格闘をし、結局勝ったものの、相手に腿の関節を打たれ、以来、足を生涯引きずるようになります。ところで、彼は、故郷に帰って兄エサウに会うと、兄に攻撃されることを恐れていました。(「わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません」『創世記』32:12)ところが、一晩中格闘をし、「足の萎えた者」になった彼は、結局翌日に兄によって温かく迎え入れられます。

 そこで思うのですが、ヤコブは、足を傷めてしまったが故に、自分の弱さや愚かさに気づき、兄に対して低い姿勢をとり、そして兄も、足を引きずる弟を歓迎したのではないでしょうか。つまり、神様は、ヤコブを弱くすることによって、無駄な争いを回避する道を開き、兄弟に平和な再会を与えてくださったのではないでしょうか。

 こう考えてみると、格闘によってヤコブに与えられた「イスラエル」という新たな名前(『創世記』32:29)も、最近ニュースで繰り返し耳にする「イスラエル」という国名と重なり、新たな気づきを与えてくれるような気がします。「イスラエル」とは、「神と争った者」、「神は勝利される」、「神は争われる」、「神が支配される」など、「神」と「争い」という二つの概念からなると言われますが、ヤコブの物語や今日の聖句からすれば、その意味は、決して「神」を「力による勝利」とつなげるような単純なロジックによって理解されるべきではありません。その名は、むしろ弱くさせられてこそ平和が達成され、恐怖から解放され、過去が克服されたことの印ではないでしょうか。

 ミカの言葉に戻りますと、「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下/いちじくの木の下に座り/脅かすものは何もない」という表現がまた非常に印象的です。これこそ、外敵の侵略がないだけでなく、いかなる暴力や威嚇からも解放され、生活者としての安全な日常が守られている平穏かつ安心の生き様として、今誰もが心から切実に願っている情景ではないでしょうか。しかも「それぞれ自分の木の下に」という表現は、それこそ今問題となっているパレスティナの領土問題や国際社会の分権的構造までを思い起こさせます。

 平和は、決して強さや勝利によって達成しうるものではないと思います。今日の聖句に示されている「足の萎えた者」の弱さによる平和、その逆説的な形で実現される和解へのヴィジョンについて深く考えたいと思います。

 

 

祈り

「父なる神様、今世界では戦争が続いています。そこで苦しむ人々をどうか助けてください。憎しみと復讐心に囚われた人々を憐れみ、彼らの心の傷を癒してください。どうか自らの弱さ、愚かさに気づき、他者との共存を図る知恵を与えてください。神様の約束された平和、イエス様の示された愛を覚え、無駄な争いを止めて和解への道を歩む勇気を与えてください。もはや剣や槍の要らない、戦うことを学ばなくていい世界を目指していくことができるよう導いてください。この祈りをイエス・キリストの御名によって捧げます。アーメン。」