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10月25日(水)全学礼拝 シリーズ礼拝―「聖学院120周年を覚えて」―東野尚志先生(賛美歌BGM付)
奨励者:東野尚志(日本キリスト教団滝野川教会牧師、本学講師)
新約聖書:コリントの信徒への手紙一 第3章10~17節(新共同訳)P.302
「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」
奨励:シリーズ礼拝 ― 聖学院120周年を覚えて ―「共に建てられ、建てて行く」
聖書の中には、家を建てる人の話がたくさん出てきます。それは、私たちの人生の営みそのものが、建築作業に似ているからだと思います。幼稚園、小学校、中学、高校と、学びや経験を重ねながら、今も大学生として、どのように生きていくのか、何をするのか、模索が続いているでしょう。人生の基礎工事です。その時、その時を一所懸命に生きながら、将来へと備えて行きます。そうやって、自分自身と自分の人生を建て上げて行くのです。しかも、ただ自分ひとりで完成に至るというのではなくて、誰かと一緒に協力しながら、共に造り上げられて行くところに、大きな祝福があるのだと思います。
建築作業において一番大事なことは、しっかりと基礎を据えることです。基礎工事で手を抜くと、せっかく建て上げた上物がぐらついてしまいます。土台のことを考えずに見える部分だけ立派に飾ろうとすると、人生の嵐に遭遇するとき、ひとたまりもなく押し流され、あるいは吹き飛ばされてしまうでしょう。全く基礎ができていないと、いつまでもふらふらと、その時の風に流されながら生きることになります。土台が据えられ、中心を貫く柱がしっかりと建てられることで、建物全体が安定するのです。
恐らく、聖書が建築の話を始めるとき、そこでまず見つめているのは、一人ひとりの人間の命と救いを支える、教会の建築のことであると思います。教会建築と言っても、目に見える教会堂を建てることではありません。時代を超えて貫かれて行く神の民としての教会です。すでに土台は据えられています。十字架の死によってすべての人の罪の贖いを成し遂げ、神の子たちとして新しく生きる救いの道を拓いてくださったイエス・キリストです。キリストを土台としながら、時代や環境の違いによって、さまざまな個性をもった教会として世界中に形づくられています。それは、神の恵みによって生きる豊かさを現わしているのです。
キリスト教学校もまた、イエス・キリストを土台として、教育という業によって、神の救いを伝えて行きます。今から120年前、キリストという土台の上に、聖学院神学校が建てられました。それ以来、さまざまな素材や賜物を生かし用いながら、聖学院の諸学校が建てられ、受け継いだ使命を担ってきました。私たちも今、学生として、あるいは教職員として、聖学院に連なることを通して、終わりの日まで続いて行く建築作業に携わっています。聖学院の建築に関わることで、私たちの人生そのものも建て上げられて行くのです。共に建てられつつ、また建てて行く、この喜ばしい建築の業に共に携わって行きたいと願います。
祈り
「天の父なる神さま。聖学院の120周年という節目の年にめぐり合わせ、共に祝うことができて感謝いたします。聖学院との出会いを通して、揺らぐことのない真実の土台であるイエス・キリストと出会うことができますように。基礎を固める学びの日々が豊かに祝されますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」