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10月17日(火)全学礼拝 シリーズ礼拝―「聖学院120周年を覚えて」―高橋恵一郎先生(賛美歌GBM付)

2023.10.17
文書礼拝

奨励者:高橋恵一郎(女子聖学院中学校高等学校チャプレン)

新約聖書:マタイによる福音書 第28章16-20節(新共同訳)P.60

「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」

奨励:シリーズ礼拝 ― 聖学院120周年を覚えて ―「チャールズ・エリアス・ガルストという宣教師」

 

 

1 今年は聖学院が主に導かれ120周年を祝う記念すべき年を迎えます。本日は、学校法人聖学院の先駆者として来日した一人の人物についてお話ししたいと思います。チャールズ・エリアス・ガルスト、という宣教師です。この人はディサイプルス派として最初に日本に来た人物です。

 彼の奥さんはローラ・デラニー・ガルストと言います。そのご婦人が、ガルストが亡くなってから、書いた本があります。『チャールズ・E・ガルスト ミカドの国のアメリカ陸軍士官学校卒業生』(聖学院大学出版会 L .D .ガルスト 小貫山信夫[訳])という本です。著者のL .D .ガルストは名前からも推測できるようにガルスト宣教師の奥様です。ここでは便宜上『ガルスト伝』と呼ばせていただきます。読むとわかるのですが、ガルストについて書いてある本というより、奥様からご主人への長い長いラブレターです。彼女はアメリカで206回 ご主人のことを巡って講演をしています。そうした背景もあって、本書『ガルスト伝』は思い出話を超えた内容となっており、当時の宣教の実態や日本人の生活状況を知る貴重な資料としての一面も持ち合わせています。

 

2 ガルスト宣教師は8人兄弟の6番目の子としてオハイオ州、デイトンという町で1853年に生まれました。お父さんはドイツ系の医師です。お母さんはアイルランド系の信仰深い方で、ガルストは強い影響を受けています。長じてガルストはアイオワ州立農業大学で2年学ぶこととなります。その学びと働きの中で、学長に見込まれることとなったのでした。下院議員が誰かウエスト・ポイント陸軍士官学校に推薦できる人間はいないか、と学長が相談を受けたとき、名前が挙げられたのがガルスト氏であったのです。ウエスト・ポイントのしごきは厳しく、死者がでるほどのものであり、中退者が後を絶ちませんでした。そのため最後までやり遂げる人間が求められていたという背景があったようです。

 ウエスト・ポイント陸軍士官学校は特別な学校です。入りたくて入れる大学ではありません。知的能力はもちろん、ずば抜けた体力が求められました。健康診断は本人はもちろん、親族の病歴まで調べられます。入学には大統領、議員の推薦が必要とされました。入学金・授業料・生活費 すべて支給されますが、当時は卒業後は8年の軍役義務が伴いました。ガルストは国を守る誇り高い軍人であり、卓越した人物であったということです。

 ウエスト・ポイントは軍人養成のための学校ですが、ガルストの場合は、そこが信仰の戦いに心を向かわせる場所となりました。きっかけは友人の持っていた新聞「クリスチャン・スタンダード」です。同新聞がガルストの信仰に火をつけ、宣教師となる決意に導いたのです。従軍して8年後、彼は除隊します。(妻となるローラと出会ったのは駐屯地でした。「駐屯地でもっとも優れた男」と評価されていたました。)除隊の目的はただ一つ。伝道でした。「愚か者」「気が変になった」と言われますが、ガルストは意思を貫き献身し、宣教師の道を進むこととなりました。

 

3 来日後、ガルスト夫妻はスミス夫妻と共に、まだ宣教師が誰もいない町秋田(当時は久保田藩があったことから久保田と呼ばれていた)へと向かったのでした。そこは古い因習・風習・生活スタイルが根強い地域でした。初めて見る外国人は目立ち、多くの人が見物にきたようです。遠慮なく庭に入ってくる人がおり、キリスト教式結婚式が挙げられた際には大勢人が見にきたため障子に150個穴があいていた、という逸話も残されています。

 

 伝道は決して簡単ではありませんでした。しかし、やがて信仰を持つ人が現れてくることとなります。忠実な人、信仰深い人が生まれてくるのです。彼は貧しい人への援助にも心を配りました。牛を飼い、当時、高価で貧しい人は手に入れることができない牛乳で人々を救い、入浴できない人を訪問します。やがてガルストは秋田を出て、今度は政治的にも活動することとなります。こうしてガルストは、日本のために尽くし、日本で死んでいきました。

 

4 ガルストは不可能と思えるところに向かっていくエネルギーを持ち合わせた人でした。他の宣教師が持ち得ない希望と大志を持ち、伝道が不可能と思えるところで神の言葉を伝え続けました。加えて、強靭な忍耐強さを持つ人物でありました。若いときは気の短さが彼の特徴であり、怒ったときの彼の行動は凄まじいものがあったようです。しかし、軍隊のなかで忍耐を学び、そのエネルギーは信仰により愛へと変えられて行きました。何よりもガルストは神への従順を求めた人物であり、神の御心に従いたいという熱意をもち続けました。亡くなる前の彼の様子が先の書物『ガルスト伝』に紹介されています。彼は死に際に家族に願いました。賛美歌を歌ってほしい、と。一部『ガルスト伝』から抜粋します。

  「信仰こそ勝利」という歌を聴いて、「すばらしい」と囁き、歌が 終わると「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は・・・決して死ぬことはない」とそっと言い、心に留まった人々のことを思い起こす中、凄まじい痛みに耐え、召された。

1898年12月28日45歳のことでした。

 

5 聖学院に籍を置くものは、意識するかどうかは別にして、このガルストの信仰・精神・情熱・人格・人生に触れるのです。それはガルストを生かしたものに触れる、ということでもあります。ガルストを生かし、導いたのはイエス・キリストに示された神の愛です。

 本日お読みした聖書箇所「全世界に出て行き、福音を宣べ伝えよ」、この言葉は、『ガルスト伝』の本に出てくる最初の聖書の言葉です。ガルスト宣教師は、この言葉に押し出され、来日し、生涯の使命を果たしていかれました。

 この言葉は皆さんにも語りかけています。皆さんは、聖学院大学という主に守られた空間で学びを続けていらっしゃいますが、そこはいつまでも留まり続けるところではありません。学んだこと、触れたことを身につけて、社会に遣わされていくこととなります。それぞれが持っている個性、強み、弱みすべてを神様は用いてくださいます。みなさんの将来を祝福されますように、心から祈っています。

 

 

祈り

「神様。本年は120周年を迎えた記念の年です。今、ここで共に喜びの思いをもって、あなたを礼拝する時を与えられ、感謝をいたします。聖学院大学に集うお一人お一人をお守りください。あなたがガルスト宣教師を導かれたように、今を支え、導き、良き将来の道を示してくださいますように。主イエス・キリストのみ名によってお祈りをいたします。アーメン。」