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9月27日(水)全学礼拝―村松晋先生(賛美歌BGM付)
奨励者:村松晋(日本文化学科教授)
旧約聖書:詩編 103編1~5節(新共同訳)P.939
「ダビデの詩。
わたしの魂よ、主をたたえよ。
わたしの内にあるものはこぞって 聖なる御名をたたえよ。
わたしの魂よ、主をたたえよ。
主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
主はお前の罪をことごとく赦し
病をすべて癒し
命を墓から贖い出してくださる。
慈しみと憐れみの冠を授け
長らえる限り良いものに満ち足らせ
鷲のような若さを新たにしてくださる。」
奨励:数えてみよ、主の恵み
私たちは、幸せなひとときを身に刻む以上に、降りかかったアクシデントの方を記憶しがちです。人と出会って楽しい時間を過ごしても、別れ際の一言だけで、その人への印象を悪化させてしまうこともあります。いずれも、私たちに働く防衛本能、すなわち、困難を繰り返さないために前もって予防線を張り、わが身を護ろうとする無意識の反応なのかもしれません。
しかし、こうした習い性とは裏腹に、私たちの生活の現実は、マイナスの事柄ばかりに覆われているわけではありません。注意深く日常に眼を凝らすと、そこに幸せ・恵みが満ち溢れていることに気づかされます。
考えてみてください。そもそも今日という日、新しい朝を迎えられたことが幸福ではないでしょうか。そして家族と一緒に朝食を楽しめること、食事をおいしいと感じられること、元気に歩いて学校に行けること、笑顔で友人と話せること、どれも素晴らしいことではないでしょうか。
そんなありふれたこと、と鼻で笑う人もいるかもしれません。しかし、病に臥せったり、長く入院したりといった経験をした人ならば、健康に朝起きられること、食欲がわきご飯を食べたいと思えること、自分で歩いてどこへでも行けること、これら「当たり前」の生活が決して当たり前ではないこと、語の真の意味で「有り難い」ことを痛感していると思います。
今日一日だけを振り返っても、このように多くの恵みを見出すことができます。これまでの生涯ではどうでしょうか。どれほど護られ、どれほど導かれ、どれほど支えられてきたか、圧倒されるような思いへといざなわれるはずです。
しかも重要なことは、こうした「有り難い」恵みは無償だということです。私たちがそれに値する偉業を成し遂げたがゆえの「ご褒美」ではないのです。自分のことを顧みても、私は欠点だらけで意志も弱く、特別な才能などありませんが、にもかかわらず、「ただで」多くを与えられ、今なお恵みをいただいていることを実感しています。誠に「有り難い」ことです。
この事実を思い返す時、私は今日選んだ聖書の個所の確かさを首肯させられます。自分の人生が、どれほど神様の恵みに彩られているか、神様の赦しは決して観念的なものではなく具体的であり、しかも、間断なくこの身に及びつつあることを感じさせられます。それは深い感謝とよろこびと共に、自分は現に護られている、全知全能の神様が共にいてくださるという深甚なる安心感をもたらしてくれます。
ある方が語っていましたが、その人は窮地に陥ると、「~してください」と神に祈る以上に、それまでこうむった恩恵を数え上げ、一つ一つ神への感謝を捧げるそうです。そのようにして、どんな時も神様が一緒にいてくださるということ、その神様はどんな時も自分を愛し見守ってくださっているということ、そうした事実に目を向けることにより、困難の渦中でも、深い安心と勇気を得ているといいます。
学生の皆さんにも同じことを勧めたいと思います。始まったばかりの新学期、自他のネガティブな部分に目を向けるのでなく、自分の人生が数えきれない恵みに彩られていること、日々の生活が多くの人の善意や愛にこそ満たされていることを数え上げてみませんか。そしてできれば、その背後に在る大いなる存在に思いを馳せてみてください。その時、皆さんの生き方は深いところで変わってくるはずです。
「数えてみよ、主の恵み」、皆さんがこの言葉を合言葉に、新しい気持ちで秋学期の学生生活を送ってくださるのなら、これに優るよろこびはありません。お祈りいたします。
祈り
「神様、オンラインの形式ではありますが、今日もこうして皆で心を一つにし、神様の下に集わせてくださいましたことに感謝いたします。ほかならぬ私自身、弱く罪深い存在ですが、にもかかわらず神様は私を赦し、私と共にいてくださり、恩恵を注ぎ続けてくださっていることを実感しております。弱い私ゆえ、時に望みを失いかけることがありますが、そのような時にこそ、神様が愛であること、いつも私に寄り添ってくださる方であることを想い、再び起ち上ることができますよう、お力添えをお願いいたします。この一言の感謝と願いを、イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。」