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9月26日(火)全学礼拝―小池茂子先生(賛美歌BGM付)

2023.09.26
文書礼拝

奨励者:小池茂子(聖学院理事長・大学学長)

新約聖書:ルカによる福音書 第19章28~35節(新共同訳)P.147

「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。二人は、「主がお入り用なのです」と言った。そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。」

奨励:主がお入り用なのです

 

 

 2019年度の入学式で、新入生代表の女子学生が、ある讃美歌の歌詞を引用し、聖学院大学における学びへの決意を述べられました。彼女が紹介してくれた子ども讃美歌の歌詞は、次のようなものです。

  わたしたちはロバの子です 馬のように早く走れない ライオンのような力なんてない ただのちっぽけなロバの子です

  だけどあなたは知っていますか ロバが主のお役にたったこと イエス様を背中におのせして エルサレムにお連れしたことを

  走れなくても 強くなくても いつもイエスさまがいてくださる わたしたちはロバの子です 神様のために働きます

 

 彼女は次のように語りました。自分は、ロバの子のように能力や力は十分なものではないけれど、聖学院大学の児童学科(現、子ども教育学科)で学んで、将来、「子どもたちを育てる人」として神さまのお役に立てるようになりたいと。私は、この新入生の言葉を聞いて、現在の自分の生き方を神から問われたような衝撃と感動を覚えました。

 

 この讃美歌の歌詞は、先に記されている聖書の箇所が基になっていると思います。

 全ての人間の罪を負うために十字架につけられることを承知で、ユダヤ教の指導者たちが待ち受けている城壁都市であったエルサレムに入城された主・イエスは、他人から借りたロバの子に乗ってエルサレムに入っていったのです。

 イエスが乗っていたロバの子は、「借りものであった」ということです。

 ここで、主・イエスがロバの子を借りようとされた時、ニ人の弟子たちにこう言いなさいとイエスが弟子たちに言った「主がお入り用です」という、言葉に注目したいと思います。

 この箇所の原文の直訳は、「主は彼を必要としている」となるそうです。「彼」というのは、ここではロバの子です。ですから、「主はロバの子を必要としておられる」、ということになります。主・イエスはこの時に、確かにロバの子を必要とされました。これは旧約聖書が約束するメシヤ(救い主)は、ロバの子に乗ってくると記されていたからです。ですから、この旧約の約束が実現するためには、主・イエスはロバの子に乗ってエルサレムに入城されなければなりませんでした。

 

 旧約聖書に記されている約束を実現して、神の国をもたらされたイエスが、さらに神の国を広め、進展させ、その教えを完成に至らせるためには、イエスは「ロバの子によって象徴されるイエスのために働く人間」を必要とされました。

 従って、イエスが必要とされた「彼」(ロバの子)は、私たちを表していると言ってよいのだと思います。イエスは(目には見えませんが)、今日もさまざまなものを用いて、神さまの御心にかなう世界を実現しようとしておられます。

 ここでイエスの12弟子のことを考えてみたいと思います。イエスの弟子のうち、4人はいわゆる教養も学問もない「漁師」であり、1人は嫌われ者の「取税人」でした。あとの7人も、彼らはただの無学な普通の人(使徒言行録第4章13節)でした。

 また、イエスの教えをユダヤ地域だけでなく、ギリシャ・ローマ世界に伝えた大伝道者であるパウロは、学問的には大変優秀なユダヤ教徒でありましたが、彼は人から嫌がられる病気をもち、外見は見栄えもせず、眼病をわずらっており、キリスト教徒に回心するまではキリスト教徒への迫害を行っていた迫害者でありました。しかし、復活したイエスに出あった弟子たちやパウロの人生は、その後180度転換しイエスの教えを全世界に広める伝道者となっていったのです。

 

 神さまは、私たちの不十分さ、欠点、愚かさ、年齢、身体的、経済的要因からくる不安など、それら私たちの欠けた部分すべてを認めた上で、私たちを「入り用」としてくださる方であると思います。私もこの4月から聖学院大学の学長という重い仕事を担うことになりました。そのことを前に、不安や思い煩いでどうにかなりそうでしたが「ささやかであっても、神さまのご用を担うもの」として、自らの生涯を差し出して生きていくことを決意し、その想いを日々新たにして生きていくことが大切なのではないかという思いに至りました。

 私たち一人一人を、「お入り用」とされる神さまのご意思を追い求めながら、そして私たちを最もよいように用いて下さる場所や機会が神さまによって用意されているのだと信じつつ、そのご意思に応えられる私たちになれるよう日々の生活や学修を積み重ねてまいりたいと思います。

 

 

祈り

「ご在天の父なる神様、御名を賛美いたします。秋学期が始まり、学生たちがキャンパスに帰ってまいりました。どうかこの学期も一人ひとりの健康をあなたが守り、彼らの学びの歩みをあなたが導いてください。そして、この学び舎において学ぶ一人ひとりが、あなたに出遭い、あなたに仕える者として生きることを見出させてください。この拙き願いと感謝を、主イエス・キリストの聖名によっておささげいたします。アーメン。」