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7月18日(火)全学礼拝―関根清三先生(賛美歌BGM付)

2023.07.18
文書礼拝

奨励者:関根清三(聖学院大学大学院特命教授、総合研究所副所長)

旧約聖書:イザヤ書 第44章15節(新共同訳)P.1133

「木は薪(たきぎ)になるもの。

人はその一部を取って体を温め

一部を燃やしてパンを焼き

その木で神を造ってそれにひれ伏し

木像に仕立ててそれを拝むのか。」

奨励:野球の神様

 

 

 今年の春は、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で侍ジャパンが世界一となり、日本中が湧きました。ジャパンを率いた栗山英樹監督のリーダーシップの素晴らしさには、しばしば目を瞠(みは)らされましたが、監督は時々「野球の神様」に言及される。この「野球の神様」とは何なのでしょうか。サッカーの神様、相撲の神様等々もいるのでしょうか。ちょうどイスラエルの神、バビロニアの神、アッシリアの神等々がいると旧約聖書が考えたように。

 旧約の預言者は、冒頭に引用した聖句にあるとおり、異教の神を偶像神として嘲笑しましたが、他国を滅ぼし自国を救うという、ナショナリズムと暴力に彩られたイスラエルの神が、はたして本物の神と言えるのかどうか。私見によれば、実はこの神理解が間違っていたことを、預言者自身、後年認めて修正するのですが(拙著『旧約における超越と象徴』増補版第五章参照)、今日はそちらには踏み込みません。最後にもう一度この話題に戻りますが、今日の主たる話題は、栗山監督の「野球の神様」です。

 栗山監督の著書『栗山ノート』には、「野球の神様」という言葉が8回出て来ます。しかしどこでも定義はされていません。ただ、「するとまた、野球の神様が聞いてくるのです」とか、「「無私」とは私を無くすこと。無私でいなければ、野球の神様の声が聞こえてきません」というふうに語られるだけです。大事なのは神様の定義ではなく、このハッキリとは定義できない、その意味で私を全く超えて超越的な、それでも内在的に公正と愛をもって我々を導いてくださるように思える、そうした神様と呼びたくなる存在を感じ、その存在がどう語りかけてくるか、関心はそこへと集中していくように見えます。

 帰国後のインタビューを想起しましょう。1点勝ち越しで迎えた決勝戦9回裏の大谷翔平登場、そして最後の打者M・トラウトとの対決は、凡百のシナリオ作家には書けない、「ドラマを超えたドラマだったのでは」と多くの人が感じたものですが、そう問うたインタヴューアーに、栗山監督はこう応えていました。

 

ふつう、僕、そういうの色々考えながら試合展開見て行くんですけど、〔大谷が先頭打者に〕いきなりフォアボール出して、いつかどっかでやられる可能性考えているので、〔負けるかなという思いがよぎったけれど、次のM・ベッツで〕ゲッツー取ってトラウト選手が〔バッターボックスに〕入った瞬間に、アーッ……勝てるかも知れない、この物語って思いました。……大谷対トラウトで試合が決まるというのは、全世界の夢のはずなんで、あ、これは野球の神様がこう作ってくれたのかなとふと思った時に、初めてこれ行けるかも知れない、勝てるかも知れないと思いました。……それぐらい、もしかすると一人一人のジャパンだったり、大谷翔平の持つ大きさだったりとか、野球の神様に祝福されている……のかなと感じます。(TV朝日『報道ステーション』3月23日)

 

 自分を超えたところでシナリオが展開し、その筋道を読み切ってそれに無心に従おうと心を澄ましているリーダーが、天来の祝福を一身に受けつつ努力を重ねる大谷翔平に勝たせるように、神様のシナリオは決まっているという確信に、最後の最後に到達する。これこそ、リーダー冥利に尽き、しかもその神経験の秘密を明かす証言となっているのではないでしょうか。

 そしてこのリーダーが見つめるヴィジョンの高さも、驚くべきものでした。帰国後の記者会見で、栗山監督はこう語ったのでした。

 

野球の面白さ、凄さ、怖さを選手たちが見せてくれまた……子供たちが見ていてかっこいいなと思ってもらったと思います。……こうなりたいと思った時に人は頑張れると僕は思っているので、そういう姿を選手たちが見せてくれたのはすごく大きかった。ぜひそこに向かってほしいなと思います。

 

 このリーダーは、こう子供たちにメッセージを送り、未来の野球界を見据えているのでした。

 これは大会MVPに選ばれた大谷選手が、インタビュアーから「これで日本の野球が、ますます世界で注目されていくと思いますが、この先に向けてどんな思いですか」と問われて、間髪を入れず次のように答えたことと響き合うように見えます。

 

日本だけじゃなくて、韓国もそうですし、台湾も中国も、その他の国も、もっともっと野球を大好きになってもらえるように、その一歩として優勝できたことが良かったなと思いますし、そうなってくれることを願っています。

 

 彼らは勝負に賭けながら、他方、一国の勝ち負けなどというエゴはとっくに超越しているのです。彼らが見ているのは、野球そのものがみんなから愛されることなわけです。そのために大谷選手自身、野球を心底から愛し、無私となってこれに仕え、努力し、自分の限界を一歩一歩超え、世界中の人が不可能と思っていた二刀流を前代未聞の形で完成しつつあること、このWBCに向けても春先に既に万全に調整をし、走攻守にわたって、以前の自分をまた超克したような技の数々を見せてくれたこと、その絶頂が、9回二死、後のないフルカウントで、球界屈指の打者トラウトと対峙し、静謐な無我の表情で正面を向いたあと、決然と投じた、曲がり幅43㎝の高速スウィーパーだったこと、空振り三振したトラウトも「凄い球だった!」と舌を巻き、謙虚な大谷自身が「コースも曲がりも完璧だったのではないかと思います‼」と回顧した、その一球に、彼の、そして侍ジャパン一人一人の、自己超越の努力が結晶していたことに、日本人は、否、世界の多くの人々が、感動したのではなかったでしょうか。

 侍ジャパンについて語り出せば、まだまだ尽きませんが、余り奨励らしからぬ話になってもいけませんので、最後にキリスト教に話を戻して終わりましょう。御年90歳となられた新約学者・宗教哲学者、八木誠一氏の最新著『宗教の行方』に、次のくだりがあります。

 

「神とは何か」を問うても始まらない。……何が「神」と呼ばれたかが問題なのです。……「神」という表象・物語の底にどういう経験があるのか、それを経験にまで遡って、その経験を現代の言葉で語る、そういうことが必要なのです。(78頁)

 

 侍ジャパンの闘いには、自己を超えて無私の働きをする監督と選手たちの、協働のドラマが脈々と息づいていました。その根底には、栗山監督の謂わゆる「野球の神様」とでも呼びたくなる超越からの働き掛けが脈打っていて、自己を超越した先の超越経験を証言しているように見えたのです。そしてその一連のドラマを通して、少なからぬ方たちがまた、それぞれの持ち場で、こうした超越経験に喜んで与(あずか)ろうという思いへと、誘(いざな)われたのではなかったでしょうか。

 そうした具体的で生き生きとした経験を積み重ねることこそが、他宗教の神を偽ものだとして貶(おとし)めたり、また聖書の描いている神をそのまま信じれるか否か、抽象的に問うて思い悩んだりすることよりも、よほど重要で本質的なことなのではないでしょうか。

 

 

祈り

「神様、小我を滅し、我々を全く超えた大我なる貴方の声に耳を澄まし、それを実現しようと、自己を一歩一歩超越する努力を、仲間と共に積み重ねていくことの大切さ、それはこの世の其処(そこ)彼処(かしこ)に証言されていることを思います。今日は今春の侍ジャパンの闘いに、その豊かな証言を見出し学ぶことができ、感謝いたします。我々自身、大学に集う者が協働して、このような自己超越の経験を積み重ねていくことができますよう、どうかお導き下さい。この感謝と願いを、イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。」