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6月21日(水)全学礼拝―嶋田恵悟先生(賛美歌BGM付)
奨励者:嶋田恵悟(日本キリスト教団土浦教会牧師)
新約聖書:マタイによる福音書 第13章24~30節(新共同訳)P.25
「イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
奨励:刈り入れまで待つ
主イエスは「毒麦」のたとえを語りました。ある人が良い種を畑に蒔きます。ところが人々が眠っている間に、敵が来て毒麦を蒔いて行きます。芽が出て実ると、畑には良い麦と共に毒麦も現れます。僕たちは抜き集めることを提案するのですが、主人は「刈り入れまで、両方とも育つままにして」おくよう命じます。毒麦を選り分けるのは、刈り入れの時に、「刈り取る人」が行うというのです。このたとえの中の「主人」とは主なる神、「畑」はこの世界です。
この世と人間の内には「悪」、聖書が「罪」と呼ぶ、主なる神の御心に敵わない状態があります。それは時に、私たちの目から見ても受け入れがたい不幸や不条理として現れて来ます。「悪」に直面した時、私たちは、それを「抜き集め」たくなります。しかし、対応を神に委ね、神の支配が実現する時を「待つ」ようにというのです。神を信じるとは、すなわち「待つ」姿勢を与えられることなのです。
このようなことを聞くと、「それでは、この世に悪がはびこるではないか」と思うのではないでしょうか。実際、神を信じることは、世を改革して行く力を奪う麻薬のようなものだとする思想もあるのです。もちろん、「待つ」と言っても、現状を変えて行くことを放棄するわけではありません。世と人間が善くなって行くことを目指し、そのために歩んで行くのです。しかし、その際、私たちが悪を断罪しようとする姿勢に注意をしなければならないのです。
何故なら、私たち人間には、悪だけを選り分けることが出来ないからです。悪と思っていたことの中に善があり、善と思われることの背後に悪が潜んでいたりします。また、人間の手によって理想を実現しようとする時、悪くすると、毒麦を抜き取ろうとしている、その人本人の中にも「罪」があることに対して盲目になってしまうことがあります。自分が善悪を知る者、すなわち、神にでもなったかのように錯覚してしまうことも起こって来ます。
現代社会は、特に、神を見ようとしない傾向が強い社会だと言って良いでしょう。「待つ」ことをしにくくなっている中を歩んでいるとも言っても良いかもしれません。私たちも、社会の現実や、周囲の人々、あるいは、自分自身の至らなさに、必要以上にダメ出しをしてしまうことがあるかもしれません。そういう私たちに、主イエスは「先走って裁くな」と語り掛けているのです。
祈り
「主イエス・キリストの父なる御神。御言葉を聞く時を与えられ感謝いたします。日々の生活の中で御言葉から離れ、時に、自ら、「抜き」、「集め」ようとしてしまう者です。そのような時に、立ち止まって、神に委ね「待つ」姿勢を与えられて歩む者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお捧げいたします。アーメン。」