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6月14日(水)全学礼拝―中本純先生(賛美歌BGM付)

2023.06.14
文書礼拝

奨励者:中本純(日本キリスト教団仙台東六番丁教会牧師)

新約聖書:ヨハネによる福音書 第1章1節(新共同訳)P.163

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」

奨励:言葉の命は愛である

 

 

 私たちが毎日の生活を送る中で、大なり小なり影響を被る要素の1つに「言葉」というものがあります。時にそれは、私たちの心に深く突き刺さるトゲになることもあれば、その反対に落ち込んでしまった私たちの心をもう一度立ち上がらせてくれる大きな力となることもあります。何故ならば「言葉」というのは、それを発する者の「人格の投影」であるからです。それはもっと言うと、「言葉とは人格そのもの」であると言うことができます。言葉を発する者と、そして聞く者との人格が触れ合う手立てであると言えます。そして、この社会の営みの中で私たちは様々な「言葉」に出会い、より豊かな「人格」を形成していくよう成長させられます。だからこそ、私たちは「言葉」というものに重きを置いて生きている生き物であると言うことができます。

 コロナ禍の期間を振り返り、私たちはまさにこうした人格の触れ合いの点において大きな困難や渇望を抱きながら歩んできたと言えます。それは旧約聖書で喩えるならば『創世記』11章に出て来る「バベルの塔」のように、互いに心を通わし、意思疎通を図ることに困難を覚えるような、あたかも「バラバラな言葉」に散らされてしまったかのような、そうした状況であったと言えるかも知れません。そうした中で聖書は、私たちに命を与える「神の言葉」があることを伝えます。聖書が伝える「神の言葉」、それはイエス・キリストを指しています。イエス様は神様の独り子でありながら、クリスマスの夜に人としてお生まれになりました。それは、イエス様を通して神様がどのようなお方であるのかを、私たちが知るためです。神の言葉は神様の人格であり、命そのものだからです。「幸せになりたい」と願いながら、しかし気が付けば言葉のトゲを振り回し、誰かを傷つけ、傷つけられてしまっている自分の姿に時として愕然とさせられることがあります。しかし、そうした人間のどうしても越えられない壁というものを神様はその言葉、イエス・キリストを通して乗り越えさせてくださるのです。イエス様(=神の言葉)を通して私たちが人格を新たにされていくからです。そうした「神の言葉」であるイエス様はこの『ヨハネによる福音書』の中で「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と語っておられます。たとえ、動物が繋がれている家畜小屋で、しかも動物の食べ物を入れる飼い葉桶で迎えられても、それでも神の独り子イエス・キリストは私たち人間を「愛している」と言うのです。この言葉にこそ、神の本質は表されています。

 

 

祈り

「天の父なる神さま。聖書は言葉を介して私たちに働きかけ、私たちを愛しておられる神様を伝えます。この困難な時代にあって、私たちを生かし、励ます言葉をどうぞお与えください。これからもあなたが共にいて、聖学院大学に連なるすべての方々をお守りください。このお祈りを、イエス・キリストの御名によってお捧げいたします。アーメン。」