お知らせ

お知らせ詳細

Information Detail

6月13日(火)全学礼拝―勇文人先生(賛美歌BGM付)

2023.06.13
文書礼拝

奨励者:勇文人(日本キリスト教団富山二番町教会牧師)

新約聖書:ルカによる福音書 第21章29~36節(新共同訳)P.152

「それから、イエスはたとえを話された。『いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。 葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。』

『放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。』」

奨励:命を使うために

 

 

 「あす終わりの日が来ても、私は今日、リンゴの樹を植える」。この言葉は宗教改革者、マルチン・ルターの言葉です。この言葉がとても印象的に使われた映画があります。「林檎の木」という題名の1994年のドイツ映画です。

 映画は、東ドイツ(約30年前までドイツは東と西に分かれていました)東ドイツのあるリンゴ農園で働く夫婦の物語です。夫婦はすれ違いの生活の中でお互いを信じられなくなり、互いを裏切り、夫婦生活が破綻してしまいます。

 そんなときにベルリンの壁が破れ、東西ドイツの垣根が取り除かれるということが起こります。しかし、西から押し寄せてきた資本主義は、効率的ではない林檎農園を押し潰し、林檎の木をブルドーザーでなぎ倒していきます。つまり、共産主義も、そしてまた期待していた資本主義も、人間の心を救うことはできないのだ、と映画は象徴的に映し出します。

 そんな中で、この夫婦は愛を取り戻します。林檎の木を植えるというところからです。それぞれに与えられた生活をやり直すことによって、夫婦は危機を乗り越えます。林檎の木を植えるために夫婦が故郷に戻るというシーンで、ルターの言葉が映し出されて映画は幕をおろします。

  今、世界では、戦争や災害が起こり、日本でも悲惨な事件も繰り返されています。不安の中に私たちはいます。世界は確実に破滅に向かっているようにさえ思えるのです。

 しかし、聖書が語る終わりの世界は、破滅の時でも、恐怖の時でもありません。聖書が語る終わりの時、終末は、まぎれもなく希望の時なのです。

 

 いちじくの木は冬は葉が落ちて枯れたように見えます。しかし、春になると若枝が出て、芽を出し、若葉が伸びてきます。そうなると夏が近いことを悟るのです。そのような何気ない当たり前の出来事の中に、神が何をなさろうとしているのかを注意して、目を向ける必要があるのです。

 しかし、「終わりの日」をいちじくの木で譬えるのならば、「いちじくの葉が落ちたならば、冬が近いことを悟りなさい」と、なぜ主イエスはおっしゃらなかったのでしょうか。そうです。「終わりの日」は悲しむべき日ではなくて、喜びの日なのです。それは、「神の国が近い」からです。

 つまり、「終わりの日」の兆しを見たならば、喜びがそこまで迫っているのです。世界が滅びる時は来るかもしれません。ただし、世界が滅んだとしても、私たちにとっては、絶望の時では決してありません。希望の時なのです。主イエスの力強い言葉が語ります。

 「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない」(ルカによる福音書21章33節 口語訳聖書より)

 滅びに向かっているような世界であったとしても、命の主であるイエスさまがいてくださる。それならば、私たちは与えられた使命に生きていけばよいのです。使命は「命を使う」と書きます。私たちは命が与えられ、その命を使うためにそれぞれに使命が与えられています。

 

 

祈り

「天の父よ。私たちはいつも自分自身のことに不安を抱えています。私たちを取り巻く世界も戦争があり、災害があり、悲惨な事件や事故が起こり続けています。しかし、そんな中にあっても変わらないお方に信頼して立ち続けることができますように、私たちに与えられた使命を見つけ、命を使うことができるように導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン。」