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5月30日(火)全学礼拝―R.ローランド先生(賛美歌BGM付)
奨励者:R.ローランド(欧米文化学科准教授)
旧約聖書:ホセア書 第11章1~9節(新共同訳)P.1416
「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。
エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。
わたしが彼らを呼び出したのに
彼らはわたしから去って行き
バアルに犠牲をささげ
偶像に香をたいた。
エフライムの腕を支えて
歩くことを教えたのは、わたしだ。
しかし、わたしが彼らをいやしたことを
彼らは知らなかった。
わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き
彼らの顎から軛を取り去り
身をかがめて食べさせた。
彼らはエジプトの地に帰ることもできず
アッシリアが彼らの王となる。
彼らが立ち帰ることを拒んだからだ。
剣は町々で荒れ狂い、たわ言を言う者を断ち
たくらみのゆえに滅ぼす。
わが民はかたくなにわたしに背いている。
たとえ彼らが天に向かって叫んでも
助け起こされることは決してない。
ああ、エフライムよ
お前を見捨てることができようか。
イスラエルよ
お前を引き渡すことができようか。
アドマのようにお前を見捨て
ツェボイムのようにすることができようか。
わたしは激しく心を動かされ
憐れみに胸を焼かれる。
わたしは、もはや怒りに燃えることなく
エフライムを再び滅ぼすことはしない。
わたしは神であり、人間ではない。
お前たちのうちにあって聖なる者。
怒りをもって臨みはしない。」
奨励:失意に感謝しよう
私は、この大学で働き始めてから多くの学生とマンツーマンで接してきました。聖学院大学での私の大きな目標のひとつは、一人でも多くの学生が外国に留学できるように努めることです。私のところに相談に来る学生の多くはアメリカへの留学を希望し、英語力を向上させるための特別なトレーニングを求めます。
例えばある日、情熱と夢にあふれた一人の一年生が訪ねてきました。その学生とは英語の授業はもちろん、授業以外の休み時間や、時には土日や祝日も一緒になって一生懸命勉強しました。
最初のうちは、私が伝えたことを全てこなし、英語力の向上が目に見える形で表れていました。しかし、そのうちに、その学生のパフォーマンスは下り坂に入りました。アルバイトを始め、新しい恋人もでき、学校でも多くの新しい友人を作ったその学生の生活における優先順位が変わってしまい、英語の学習意欲はもちろん、留学への意欲さえも薄れていってしまったのでした。そしてついには、1年以上私がマンツーマンで指導してきたこの学生は、私のメッセージや電話、メールなどにも応じなくなってしまったのです。せっかく多くの時間と労力をかけて英語の勉強をしてきたのに、この学生は残念ながら自ら諦めてしまったのです。
私は、とても強く深い失意を感じました。そして、傷つきました。
この文章を読んでいる方々の中で、誰からもがっかりさせられたことが全くない人はいないと思います。誰かに期待し、あるいは期待され、最終的には残念ながらその期待通りにはいかないことはよくある事で、とても普通なことです。しかしそれは同時に、私達人間の感情的な事柄というだけではなく、神にも通ずる精神や魂に関わる事柄でもあるのです。なぜなら、私たちが誰かに失望したとき、私たちの中にきれいごとでは済まされない怒りが湧き上がってくるからです。特にクリスチャンであってもクリスチャンらしくないことをしたり、言ったりしたくさえなるのです。預言者ホセアは、自分自身の人間的な、現実的な失意の中に、神が私たちをどう感じておられるかについて学ぶことができるヒントがたくさんあることを発見しました。
ホセアの預言の基本的な考え方の1つは、神は私たちの存在をいつも感じておられるということです。神は、私たちが普段何をし、どのような人間であるかを気にかけ、私たちの忠誠心に関心を持たれています。しかしホセアは、私たちが神の望むような存在ではないとき、神が傷つくということをはっきりと理解しました。
しかし、それ以上に、神様は私たちに、その感情をどう生かすか、その失意をどうポジティブなものにするかの方法を教えてくださるのです。
がっかりしたことが重なると、とても深刻でつらい失望を味わうことになります。
ホセアは、神がどれほど自分の民を愛していたか、そして民が荒野にいたときに与えてくださったすべての愛を、苦悩しながら覚えている神の姿を描いているのです。
”私はイスラエルの幼い時、これを愛した。わたしはわが子をエジプトから呼び出した。わたしが呼ばわるにしたがって、彼らはいよいよわたしから遠ざかり・・・”(ホセア書 第11章1節 口語訳聖書より)
皆さんは、この気持ちに共感ができますか?
私たちを最もがっかりさせるのは、私たちが膨大な時間とエネルギーと愛とお金と感情を注ぎ込んだ人たちから与えられる失意であり、私たちが努力をすればするほど、その人たちは私たちとの間に距離を置くようにさえ思えるのです。
しかし今日、私が皆さんに伝えたいことは、そのような失意を感じたときには、どうか喜んでください。そうです、誰かに対してがっかりしたとしても、喜びましょう!
なぜなら、それは、あなたが他を気にかけることができる人だということだからです!あなたは他の価値を認め、気遣う能力を持っているということです。
そしてもしも、あなたが決してがっかりしない人なのであれば、あなたの心は冷たくなってしまっているということなのです。人間らしい素晴らしい部分が失われているのです。
私の高校時代の歴史の先生は、自分は悲観主義の道を選んだと語っていました。悲観主義であればどんなにがっかりすることが起こっても決して失望することはないと彼は確信を持って言ったのです。しかしながら、そのように言う彼は、想像を絶するほど暗く、否定的で、無慈悲な人間になってしまっていました。
ですから、もしも今あなたが、自分をがっかりさせるほど大切に思っている人がいるとしたら、どうか喜んでください。神様もそのようなお方だからです。
神はイスラエルをとても大切にされ、裏切られたときに失意を抑えることができませんでした。
他者に期待をして、失意を持つということはとても人間的なことではありますが、同時に、神様と同じような期待、気遣い、怒り、そして愛を持つことでもあるのです。
祈り
「ご在天の父なる神様、私たちが過去のすべての失意を手放し、私たちを失望させたすべての人たちを赦すことができるようにお導きください。神よ、あなたの強さにおいてのみキリストが私たちを赦してくださるように、私たちも、私たちを傷つけた人たちを本当に赦すことができます。キリストは、十字架で自分を十字架につけた者たちに対して、「父よ、お赦しください」とまで言われたのですから、私たちも同じように赦すことができるように力をお貸しください。愛する主よ、私たちは赦しを選択するべきことであることを知っています。どうか私たちがその正しい選択ができるようにお助けください。そして赦しが私たちの心を満たし、私たちが真の心の癒しを得ることができるように、お導きください。主イエス・キリストの御名においてお祈りいたします。アーメン。」