お知らせ

お知らせ詳細

Information Detail

5月26日(金)全学礼拝―鄭鎬碩先生(賛美歌BGM付)

2023.05.26
文書礼拝

奨励者:鄭鎬碩(政治経済学科教授)

新約聖書:使徒言行録 第2章41~47節(新共同訳)P.217

「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。

 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」

奨励:聖霊と教会の未来

 

 

 キリスト教の「三大祭」の一つであるペンテコステ(聖霊降臨日)が近づいてきました。毎年この頃になると、わたしは、昔、ある老牧師先生と交わした会話を思い出します。その先生は、聖霊降臨が実際どのようなものだったのか、ずっと気になると言っていました。わたしが生まれる前に牧師になり、数十年にわたって大学でキリスト教を教えてこられた方であっただけに、その率直な感想は、わたしにとってたいへん新鮮でした。

 使徒言行録の第2章には、「聖霊」が降る様子が描かれています。弟子たちが集まっていると、突然激しい風のような音が聞こえ、炎のようなものが彼らの上にとどまります。彼らは、霊に満たされ、何かに取り憑かれたかのように異言(ほかの国々の言葉)を吐き出します。それを目撃した人びとは、大いに驚き、戸惑います。この「騒ぎ」は、第三者からすれば「集団的な狂乱の沙汰」のようなものであり、彼らを「ぶどう酒に醉っている」(15節)と嘲る者がいたことも無理ではありません。日常感覚からすれば明らかに「おかしい」、何らかの「不思議な」現象が起きていたのです。

 ただ、そのとき弟子たちに注がれた「聖霊」は、父なる神、御子のイエス・キリストと共に「三位一体」を成しており、今日のキリスト教において絶対欠かせない教義とされています。言い換えれば、この聖霊降臨の「おかしさ」、「不思議さ」を受け入れてこそ、キリスト教徒になれるということでしょう。

 ところで、わたしが生まれ育った韓国では、「聖霊」を重んじる傾向を見せる教会が少なくありませんでした。わたしが子どもの頃から通っていた教会は、どちらかというと「おとなしい」雰囲気であり、牧師先生の説教も神学の原理を丁寧に教えてくれるほうでしたので、その影響なのか、わたしは、「聖霊」を大いに語り、情念溢れるお祈りや讃美歌で「雰囲気を盛り上げる」一部の教会に対しては違和感を覚え、「聖書の正しい読み方」にこだわるより、「聖霊の恵み」に頼って伝道に力を入れる教会のことをどこか見下すようになりました。

 しかし、そんなわたしであったにもかかわらず、日本で経験した礼拝の情景は少し衝撃的でした。というのも、牧師先生は説教の中で頻繁にヘブライ語やギリシャ語の語意に触れ、翻訳の違いに注意を払い、「ニケア信条」に至っては、およそ一年かけて細かく解説しておられました。また信者たちも、あたかも「受験生」であるかのように説教を聞いており、一所懸命ノートをとる姿も稀ではありませんでした。後日、わたしは、日本の教会は、その重たる傾向として「聖霊」をあまり強調しない、またそのことが伝道に対する消極的な姿勢とも重なり、若い世代のクリスチャンが育たず、深刻な「高齢化」の問題を抱えている日本の教会にとって、一つの反省点となっているということも知りました。

 神学者のハーヴィ・コックス(Harvey Cox)は、『宗教の未来(the future of faith)』という本で、キリスト教の信仰を、教義に対する確信(belief)と、自分の全てを神に委ねる信頼(faith)に分けています。その区分を用いるならば、韓国の教会は比較的に「faith」を重んじるのに対し、日本の教会は「belief」のほうを大事にしていると言えるかも知れません。なお、さらに視野を広げるならば、こうした信仰の両面性は、パレスチナを発祥の地とするキリスト教がローマ帝国において公認されることで教理の明文化・体系化を遂げ、さらに非ヨーロッパ世界に広く伝わってきた長い道において呈してきた驚くべきダイナミズムと深くかかわっています。とりわけ、キリスト教のグローバル化や世界各地でのリバイバル(信仰復興運動)において、「faith」にかかわる霊性の側面が大きな力を発揮したと言われていますが、そのなかで副音が常に「正しく」理解され、教義がちゃんと貫かれてきたかというと、それはなかなか難しい問題です。

 世界各地には、個人の感性や「心の癒し」を過度に強調し、神に対する勝手な理解を許し、場合によっては「悪魔払い」に近い儀式をするような教会もあります。そのような信仰の形に対しては当然、「正しくない」とはっきり言いたいところです。また、近年、南米・アフリカ地域では聖霊の働きを強調する「ペンテコステ派」の教会が飛躍的な成長を遂げていると聞きますが、韓国で大きな存在感を誇る一部の大型教会の場合と同じく、それら教会における信仰の内実についても慎重な評価が必要でしょう。ただ、その一方で、今ペンテコステに際して思うのは、「聖霊の不思議な働き」についての判断もまた極めて慎重でなければならないということです。

 わたしたちの信仰に、明快な理屈の次元に回収しきれない「不思議な側面」があることは確かです。また人びとが信者になる、それこそ「不思議な霊的体験」にもとづいた入信が日々起きていることも事実です。「faith」にかかわる聖霊の働きについてのわたしたちの理解は極めて不十分であり、だからこそ、その計り知れない波及力と、それがもたらしうる予期せぬ効果を簡単に論じ、限定することはできません。

 ブラジルやジンバブエで爆発的な勢いを示すペンテコステ運動においては、教会が貧困層を助け、地域コミュニティの再生に熱心に取り組む姿が目立つと言われています。その話から、かつて韓国の教会が、さまざまな問題や限界を抱えながらも民主化の過程において一定の役割を果たしたことも思い出します。また、信仰は個人の「内面」の問題と理解されがちですが、教会という集団として、あるいは「外側」の社会との関わり方においてはじめて意味を成すような信仰もあるかも知れません。聖書によれば、聖霊は明らかに弟子たちの「群れ」に降り、ペトロの言葉に感化されて洗礼を受けた人びとは、やがて「教会」を形成しました。財産を分け合い、「喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美」する信仰の共同体には「民衆全体から好意」が寄せられ、「救われる人々」が「日々仲間に加」わっていきました。これは、まさに教会の目指すべき理想形とでも言えるでしょう。

 わたしたちは今、実にたいへんな時を生きています。ニヒリズムに満ちた、この暗い時代の重圧に堪えて明日への希望を求め、教会の未来を思い描くことは果たして可能でしょうか。今の教会が置かれた状況、とくに日本の現状を考えると、心が重くなることもあります。ただ、聖書に示された、聖霊に満たされた人びとの姿は、単に過ぎ去った歴史ではないはずです。それは、キリスト教の未来に向けられた力強いユートピアニズムのようにも思えます。今日の聖句は、いかなる教理や制度においても固定されることなく、常に躍動する聖霊の働き、その不思議な力を抜きにしては、「信仰の希望」は語れないと教えてくれているようです。「教会の誕生日」であるペンテコステを祝いつつ、教会の未来、さらにキリスト教の信仰が潜めているはずの希望について考えたいと思います。

 

 

祈り

「父なる神様、ペンテコステのときに、わたしたちの信仰と教会の未来について考えます。どうか弟子たちに注がれた聖霊をわたしたちにも許してください。先の見えない不安の時代、何が事実で、どこに価値があるのか見分にくい混沌の時代ですが、どうか聖霊の助けによって信仰を新たにすることができるよう導いてください。また、わたしたちの教会のために祈ります。喜びと真心をもって共に神を賛美し、共にパンを裂く開かれた共同体にしてください。他者のために祈り、行動し、社会とつながることで、より明るい未来を作っていく責任を果たすことができるよう聖霊の力で強め、導いてください。この祈りをイエス・キリストの御名によって捧げます。アーメン。」