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5月25日(木)全学礼拝―宮本悟先生(賛美歌BGM付)
奨励者:宮本悟(政治経済学科教授)
新約聖書:ルカによる福音書 第15章4節(新共同訳)P.138
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」
奨励:迷える羊を捜し出す
聖書には羊の話がよく出てきます。私は、昨年の奨励で、ユダヤ教や原始キリスト教、イスラム教では、不浄のものとして豚を食べることをタブーとしていることを話しましたが、反対に羊は食べてよいものでした。日本の歴史上、明治時代になるまで牧羊はほとんどなかったので多くの日本人は今でも羊にはなじみがないでしょうが、中東では牧羊は古代から行われていました。食肉も羊肉が中心でありました。中東の人々にとって、羊はなじみ深いものであります。
イエス・キリストが羊をたとえにして人々に話をされたのも、そういう中東の環境があったからだと思います。ただ、多くの日本人には、羊はなじみ深くありません。ですから、羊のたとえ話は分かりにくいものかもしれません。
もちろん、当時の中東では、牛も飼われていました。なぜ羊ではなく、牛ではダメなのか。ついこの間にモンゴルに行って興味深い話を聞きました。放牧では、牛や馬などは朝、小屋の扉を開いて出て行くと、夕方には自分で帰って来るそうです。人がずっと見守る必要はないそうです。しかし、羊はずっと群れを見張っていなくては、群れがバラバラになっていき、人が集めなければ、はぐれてしまう羊が現れるそうです。まして羊は牛に比べると小さいので、オオカミなどの害獣から守ってあげるためにも、人が見張ってあげる必要があるのです。
だからと言って、羊飼いが、見失った羊一匹を見つけ出すまで捜し歩くというのは、大変ではないかと思うでしょう。実際にこれは大変な作業なのです。そこまでするのは、人が失った財産を探すための欲望によるものだと解釈する人もいるかもしれません。それはある程度は間違いではないですが、これは羊にとっても重要なことなのです。羊は、群れる性向が非常に強い動物です。群れからはぐれることは、羊にとって大きな恐怖になります。羊は、何かの間違いで群れからはぐれたら、恐怖におびえながら生きなければなりません。だから、羊飼いは、はぐれた羊を探すのです。
人も似ているのではないでしょうか。人は集団で暮らします。昔、集団から離れた人のストレスは大変なものでした。生活を自分だけでしなくてはならないし、野盗などに襲われる恐怖が常にあるからです。しかし、人口が急増した現代社会では、むしろ集団の中に身を置くのが苦痛と感じる人たちも多くなっています。神が探しているのは、そういう人たちなのです。牧師はそういう人たちを見つけて、神の下に連れてくるのです。人が羊の飼い主であるように、神は人々の飼い主なのです。迷える羊を飼い主の下に連れてくるのは、集団から外れた人々を主たる神に連れてくるのと同じです。それは神が最も喜ばれることなのです。
祈り
「世界と人間を作られた神様、あなたは全知全能であり、すべてのことをご存知です。しかし、人は愚かであり、迷うことがよくあります。どうかあなたの力をもって、多くの迷える人々をお導きください。この祈りを主イエス・キリストの聖名によってお捧げします。アーメン。」