お知らせ

お知らせ詳細

Information Detail

5月23日(火)全学礼拝―和田光司先生(賛美歌BGM付)

2023.05.23
文書礼拝

奨励者:和田光司(欧米文化学科教授)

新約聖書:ヨハネによる福音書 第8章12節(新共同訳)P.181

「イエスは再び言われた。『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』」

奨励:みことばの光

 

 

 クリスチャンの人々は、よく「神様に出会った」とか「イエス・キリストに出会った」などと言うことがあります。彼らの目の前に聖書の神様が突然出現した、というのではないでしょう。しかし、何らかの「出会い」が存在しないとしたら、聖書はギリシャ神話などと変わらないものになります。少し、私の例をお話しましょう。

 私は高校2年生の時に信仰を持ち、教会の礼拝にも通っていましたが、礼拝以外に自分自身で聖書を開いて読む、という習慣はありませんでした。3年生になって大学受験の勉強をするようになりましたが、私の心は大変不安でした。高校まではただ「周りの人が皆行くから当然だ」といった調子で、とくに何も考えずに来たのですが(私の郷里は田舎でしたから、進む高校も限られていて、ほぼ自動的に決まりました)、大学はまったく別の未知の世界に思えました。私の成績は漠然と憧れていた志望校にはほど遠いものでしたし、自分はどの土地のどの大学に行くのか、そこで何を勉強するのか、そして自分の人生はどうなってしまうのか、自分の将来はまったくの暗闇の中にあるように感じ続けていました。

 「少しでも気休めに」と思ったのでしょう。ある時、勉強の途中に、近くにあった聖書を手にとって、適当に箇所を開いて読んでいました。それは「ヨハネによる福音書」でしたが、ある箇所で私の目が止まりました。8章12節の、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」という箇所です。その言葉が、なぜか特別に私の心の中にすっと入ってきて、私の心を強く捉えました。言葉の深い意味はよく分かりません。しかしその時、私はその言葉がただの文字ではなくて、まさに私自身に向かって発されているように感じました。2000年前のイエス・キリストの言葉ですが、時空を超えて今の私に直接語りかけられているように感じたのです。私の心に深い平安が与えられました。志望校に合格するかもしれないし、しないかもしれない。自分の人生もどのようになるのか、分からない。具体的な根拠は何もないのですが、でもこの言葉によって、何か大丈夫だ、と思えたのです。私は結局志望校に合格できました。しかし、合格しなくても将来への漠然とした希望を持ち続けることができたでしょう。それは私にとって初めての経験でしたが、その後も同じような経験を積み重ねて、私は今日に至っています。皆さんにも同じ聖書が開かれています。大学でのこの4年間を通して、皆さんにもそのような「みことばとのよき出会い」があり、少しでも皆さんの人生の糧になるようにと願っています。

 

 

祈り

「天の父なる神様。あなたはみことばを通して、私たちに語りかけておられます。どうか、私たちの人生の折々に、あなたが必要なみことばを与えてくださいますように。不安な時に私たちの心に平安を与え、私たちを励まし、私たちの人生を導いてくださいますように。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」