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5月17日(水)全学礼拝―田中かおる先生(賛美歌BGM付)

2023.05.17
文書礼拝

奨励者:田中かおる(日本キリスト教団安行教会牧師・本学講師)

新約聖書:ルカによる福音書 第24章13~39節(新共同訳)P.160

「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、『歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか』と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。『エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。』イエスが、『どんなことですか』と言われると、二人は言った。『ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。』そこで、イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。『なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。』」

奨励:心は燃えていたではないか

 

 

[1]「お互いの心が内に燃えたではないか」(口語訳)。聖書の言葉である。しかし、そう思えることは今の世の中であるだろうか?どうも、最近は「心が燃える」というよりは、心が冷え切るような世の中に思えてならない。国の内外に暗いニュースが続いているからである。

[2]こんなふうに心が冷えきっている時に、それを払拭させてくれた出来事があった。それは、ある人の発言との出会い。「本当に(平和を)守りたければ、そもそも戦争をしないことが一番、確実。~政府に戦争を避けるという考えが欠如している。政府は、台湾有事を起こさないための外交を死に物狂いで模索すべきだ。」これは、つい最近、政府が抑止力強化のために反撃能力の保有など軍備の増強を掲げたことについて、ある人が発した言葉。「(政府は軍備の増強を掲げたが)国民の安全を守るためにやるんだということが、逆にもっとたくさんのミサイルが飛んでくるような状況が生まれてくる。本当に(平和を)守りたければ、そもそも戦争をしないことが一番、確実」…「武力には武力で対抗するしかないでしょう?武力なしで、どうやって国を守ることができるのか?」と一見、もっともらしい理屈に対して、真っ向からNo!と言っているこの発言。この発言をした人は、なんと元内閣官房副長官補・元防衛庁運用局長だった人。自衛隊を知り尽くしている立場で政府の内閣官房副長官補を務めた立場からこういう発言をしている。これは、なかなか重い発言である。更に、この人は著書の中でこうも語っている。「一番、鍵になるのは、武力を使わないような世界を展望するとしたら、それは戦争をしないという国際世論をどう作るかにかかっている。~これがこれからの課題になっていくだろうと思います」(『非戦の安全保障論』―ウクライナ戦争後の日本の戦略―、共著・柳澤協二他、集英社新書、2022)。この人の発言は、「武力には武力!」というこの世の声に、そうではない視点なくしては本当の平和は実現しない、という発想。

[3]この発言には、私は「心が燃え」た。まさに、聖書の発想と同じだからである。この人がクリスチャンであるかどうかは知る術がない。しかし、この視点は、まさにキリストが、「武力には武力」ではなく、その全く真逆な方法(=十字架におかかりなるという仕方)で神の願う「平和」を実現してくださったことと重なる。キリストの十字架の死は、この世の論理と全く逆。神が人間のために犠牲になられたのだから。しかし、それこそが、「武力には武力を」という戦争の連鎖、争いの連鎖を断ち切る方法だったのである。それを示された後、神はキリストを復活させてくださった。…ここに、あの十字架がただの敗北ではなかった、ということを示されている。そして、大事なことは、本当の平和は、ただ「戦争が無い状態」のことだけをいうのではない、ということ。今日の箇所のそのすぐ後にこういう言葉が記されている。「こういうことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和(エイレーネ)があるように』と言われた」。この「平和」と訳されているギリシャ語の「エイレーネ」は、もともとの意味は「戦争や争いと正反対の状態」を表わす。しかし、新約聖書においては旧約聖書の「シャローム」という言葉が背景となっていて、その「シャローム=平和」は神と世界、神と人間の関係における「和解」が重要な要素となる。人間相互の平和も、人間の内的平安も、キリストによって打ち立てられた「神との平和」に基づくもの、というのが、聖書の示す「平和」。新約聖書においては、この「平和」が「キリストの十字架によって実現された」という証言が中核になっている。キリストの十字架の死は、神と人間との和解のための「執り成し」に他ならず、それを通して人間に神との平和(和解)が与えられた、と受け止める。この神との平和(和解)の上にあらゆる種類の平和が築かれていく(エフェソ2:14-17)。この十字架による「平和(和解)」がキリストによって実現されたことを信じるキリスト者は、それを証する者であり、平和を作りだす者(マタイ5:9、第二コリント13:11等)として、世に派遣されていく。従って「エイレーネ」は、キリスト者を平和の実現の実践へと押し出す力をもっているのである。単に、自分が充足していることに留まらない、という点が大事。キリストが弟子たちに語りかけてくださった「平和があるように」という言葉は、こういう意味を含んだ深い言葉である。主イエスが十字架におかかりになって墓に収められ、意気消沈していた弟子達が聞いた言葉は、本当の平和とは何か、を示す言葉だったのである。

[4] 主イエスが十字架におかかりになり墓に収められた後、週の初めの日、イエスは復活した、というニュースがエルサレム中をかけめぐった。しかし、弟子達はそれを聞いても信じることができず、落胆していた。けれども、エマオへの途上で、復活のキリストから(それがキリストだとは気づかずに)聖書の説き明かしを聞いていた時「お互いの心が内に燃えたではないか」という体験をした、と聖書は語る。彼らはすぐにはそれが主イエスだとはわからなかった。しかし、主と共に食卓(=聖餐)についたとき、二人の目が開け、それが復活の主イエスだとわかり、更に、あの時、そう、エマオへの途上で聖書の説き明かしを聞いていた時、「お互いの心が内に燃えたではないか」という体験をしたことを思い起こすことができたのである。聖書の説き明かしと聖餐の食卓‥まさに「礼拝」である。この「礼拝」のただ中に、復活の主が、お姿はみえなくてもいて下さるから、私達は主のご復活を知り、主がこの世に勝利してくださったことを信じることができる。世の中の情勢はどんなに暗くても、「心が燃える」=希望をもてる、ことができるのである。

 

 

祈り

「主なる神さま、私たちが世の現実に、また自分の心の内の闇に、心が暗くなっているその最中に、主は共に歩んでくださり、聖書を解き明かし、主の食卓に招いてくださることを知って、感謝します。主が共にいてくださり、「平和をつくりだす者」としての歩みを得させてくださいますように。主イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン。」