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5月31日(水)全学礼拝—竹井潔先生(賛美歌BGM付)
奨励者:竹井潔(政治経済学科特任教授)
新約聖書:マタイによる福音書 第5章3節(新共同訳)P.6
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
奨励:心の貧しい人とは
マタイによる福音書の5章1節から11節まではイエスが山に登って説教を始めた「山上の説教」の一節です。5章の3節から11節までは「幸い」について語られています。
心の貧しい人々は、幸いである。
悲しむ人々は、幸いである。
柔和な人々は、幸いである。
義に飢え渇く人々は、幸いである。
憐み深い人々は、幸いである。
心の清い人々は、幸いである。
平和を実現する人々は、幸いである。
義のために迫害される人々は、幸いである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなた方は幸いである。
私は山上の説教の中で「心の貧しい人々」とはどういう人々なのか、疑問を持ち、引っ掛かったことを覚えています。心が豊かな人々ではなく、なぜ心の貧しい人々が幸いなのだろうかという疑問がわきます。また「心の清い人々は幸いである」というのは分かりますが、「心の貧しい人々」がなぜ幸いなのか疑問に思います。今日の聖書の箇所で語られている「心の貧しい」とはどういうことなのでしょうか。
聖書で語られている「心」はギリシャ語でプネウマであり、息や生命力、霊の意味で、英語ではspiritに該当します。また、「貧しい」はギリシャ語でプトウコスであり、英語のpoorが該当します。プトウコスをギリシャ語辞典で調べると、マタイ5.3における心の貧しい人の意味が示されており、「霊において貧しい者。自らの霊において神の前に無一物、乞食同然であることを意識する人々」と記されています。また、英語の辞書を調べると、この箇所のpoorの意味について、「神の前で謙虚な者」と記されています。
したがって、心の貧しい人々とは、神の前で霊において謙虚な人々といってよいでしょう。心の貧しい人とは、自分では自分自身の霊を救うことができないということを知っている者、そして神の助けを必要とする人々のことを言っているのだと思います。
先日、整形や整形アプリが流行っているというニュースを見ました。
自分が変わりたい、みんなから好かれたいという気持ちから整形手術にお金をつぎ込んできたけれど、整形した自分を鏡で見て、綺麗になった自分を見てもそれでも何か心が満たされない気持ちがすると語っていた女性が印象的でした。
心の貧しい人とは、心の器が空っぽに近い状態で神の恵みが十分に受け入れられる人のことだと思います。心の器を自分本位でいろいろなことをいっぱい詰め込んでしまうと、神の恵みを受け入れる余裕がありません。自分で心の器をいっぱいにしてしまって濁っている心の器は、一旦リセットして空っぽにし、神の前で霊的に心の貧しい者となること、すなわち神の前で謙虚な人が幸いであるといっているのです。
聖書で語っている「心の貧しい人」とは自分の中には救いの可能性がなく、神によってのみ救われることに気づく謙虚な人のことをいっているのです。そして、心の貧しい人とは、十分な神の恵みを受け入れて心が豊かな人となれる人のことであると思います。
祈り
「主イエス・キリストの父なる神様 私たちは様々なことに思い悩み、また不安に思うことが多い者です。そんな時、私たちは神を受け入れ、神にゆだねて、神に導かれて前に進んでいくことができますように、私たちを勇気づけてください。今日の一日を主の御手のうちに過ごすことができますようにお守りください。アーメン。」