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4月21日(金)全学礼拝―村松晋先生(賛美歌BGM付)
奨励者:村松 晋(日本文化学科教授)
新約聖書:テサロニケの信徒への手紙一 第5章16~18節(新共同訳)P.379
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
奨励:いつも喜んでいなさい
本日の聖書の個所は、私が今年元旦の礼拝で、この1年、常に覚えておきたい聖句として、皆さんの前で紹介させていただいたものですが、パウロのこの言葉を読むたびに、私はいつも学生時代のある経験を想い起します。
聖学院大学で学ぶ皆さんのなかには、教師を目指している人も少なくないと思いますが、私も大学4年生の時に教育実習を出身高校で2週間行いました。科目は世界史でした。いろいろな思い出がありますが、ここでは実習後の一つの経験をお話ししたいと思います。
その日、教職関連の授業は実習報告会のような内容でした。終盤、担当の先生が私たちに「今後教壇に立つにあたって、何が一番大切と思うか」と問い、参加者全員に一言ずつ発言を求めました。私は何と回答したか覚えていません。ただ、皆が一通り発言し終わった後、その先生が仰った言葉はよく記憶しています。「教員は明るくなければいけないね」、先生は真面目な顔で、こうつぶやかれたのです。
受講生全員に向けられたこの一言を、当時の私は額面通りに受け止めました。つまり、先生たるもの、時には生徒と一緒になって「歌って踊れる」ような「明るい」人でなければならないと。私は自分にそうした面が欠けていることを自覚していましたから、「教員に向いてないんだろうなあ」と、心の中で応答した次第です。
しかし、その後の私は、はからずも教壇に立つようになりました。そして経験を積み重ねるなかで、学生時代に記憶したこの言葉を別の角度から受け止めるようになりました。
たしかに教員という仕事において、生徒と共にワイワイ盛り上がれるような「明るさ」は無益ではありません。しかしそうした「明るさ」とは別に、より深い意味の明るさが求められるように思うのです。それは何か。一言でいうと、何があっても人間や物事のプラス面を見出そうとし、何事も前向きに捉えて一歩踏み出すようなあり方です。
今になって想えば、教職担当の先生は、これから教壇に立とうとする学生達に、こう告げようとしていたのではないでしょうか。――「やっても無駄だ」「どうせ駄目だ」「同じことの繰り返しだ」と、始める前から悲観的な決めつけをしたり、物事のマイナス面ばかり数え上げたりするのをやめなさい。どんな生徒に対しても良い面を見つけ、一ミリでも前進できた喜びを明日への活力にしなさい。その意味で、「教師たる者、明るい人であれ」と。――私はこの経験を反芻するなかで、今日紹介したパウロの言葉、「いつも喜んでいなさい」といういましめを、より深いところで理解できるようになったと感じています。
私たちをとりまく現実は、時に苦しく活路が見いだせないように思えることがあります。しかし、現実というものは多面的です。しかも私たちがかかわった分だけ必ず動く、可変的で流動的なものです。これは学問的にも確実に言えることなのです。パウロは決して、無理ないましめを私たちに強いているわけではないのです。
ですから皆さん、これからの日々において、どれだけ八方ふさがりに思えても、希望を捨てないでください。明るい気持ちを持ち続け、他の選択可能性を探ってください。そしてできれば聖学院大学在学中に、パウロをして「いつも喜んでいなさい」と言わしめた、その根底にある信仰・神様へのゆるぎない信頼を自分のものとしてください。その信仰・信頼に生きることができれば、皆さんの大学生活、ひいてはその後の長い人生は、より一層、深みを増し、光彩を発揮することになるでしょう。
祈り
「神様、文書礼拝の形ではありますが、今日こうして私たちを一つに集めてくださり感謝申し上げます。私たちをとりまく現実には苛烈なものがありますが、しかし、すべてを神様が統べておられるという根源の事実に依り恃み、いかなる時にも感謝と希望とよろこびを持って歩んでまいりたいと存じます。とはいえ私たちは信仰の無い弱い存在です。どうかこのような私たちを憐れみ、赦し、私たちがパウロのこのいましめを生きていくことができますように守り導いてください。この一言の感謝と願いを、イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。」