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4月18日(火)全学礼拝―木村太郎先生(賛美歌BGM付)
奨励者:木村太郎(心理福祉学部兼人間福祉学部チャプレン)
旧約聖書:イザヤ書 第46章4節(新共同訳)P.1138
「同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで
白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。
わたしが担い、背負い、救い出す。」
新約聖書:マタイによる福音書 11章28節(新共同訳)P.21
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
奨励:聖書を開く
春学期が始まり、先週はチャペルでの対面礼拝が行われ、今日からしばらく文書礼拝が続きます。対面でも文書でも、礼拝に欠かすことができないのは聖書です。なぜなら、礼拝の中心は聖書からのメッセージだからです。そうであれば、聖書を実際に開いてみることが大切です。
しかし、そのことは億劫かもしれません。聖書は小さな文字が散りばめられている分厚い辞書のようであるからです。聖書を開くことのハードルは少し高いように思います。勿論、そういう人ばかりではないでしょう。聖書はイエス・キリストという方についての書物です。ですから、キリストの生涯について興味があり、聖書を開いてみようと思う人もいるのです。
しかし、実際に開いてみても、次のような思いで聖書を閉じてしまうことがあるかもしれません。ある人がこんな文章を書いています。「若い頃、私はイエスに従ってゆきたい、イエスの真似をして生きてゆきたいと心から願いました。そう願っても現実の生活は不可能に近いのです。・・・イエスの愛の内容を知るにつれて、自分の愛の醜さが鏡に映すように映し出されてしまうのです。その落差が絶望的に大きいので、私は聖書を閉じてしまいました」。
この人は聖書を開き、キリストがお語りになった言葉の一つひとつを真摯な思いと共に読み進める中で、その生き方に憧れを持ちつつも、キリストと自分の生き方が大きく乖離していることを突きつけられ、そのように生きることはできないと諦め、結局は聖書を閉じてしまったのです。
確かに、キリストの生涯を通して知らされることは、この人が言うように愛の醜さや至らなさというわたしたち人間の不完全さかもしれません。それは、素晴らしい人に出会ったとき、その人に対する尊敬の念を持つだけではなく、時に自らの小ささ、惨めさを感じてしまうことから分かります。
しかし、聖書というのは、イエス・キリストの生き方を模範とすることを勧めている人生のマニュアルのようなものではありません。言い換えれば、聖書が証しするキリストは模範にすべき偉人の一人ではないのです。
そうではなく、キリストはわたしたち一人ひとりの小ささを担ってくださる方なのです。「・・・わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ書46章4節)とお語りになった神は、ご自身の姿を独り子であるキリストを通してお示しくださいました。そして、そのキリストはこうお語りになりました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイによる福音書11章28節)
聖書を開くことによってこの方に出会うことができるのです。わたしたち一人ひとりに対するキリストの愛の広さ、長さ、高さ、そして、深さを知ることができるのです。
祈り
「憐み深い天の父なる神、新学期が始まり、このキャンパスに活気が戻ってきました。学びへの意志と意欲を整え、それぞれの目標に向かう生活の全てをお守りください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」