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4月25日(火)全学礼拝—菊地順先生(賛美歌BGM付)
奨励者:菊地順(政治経済学科特任教授)
旧約聖書:ヨブ記 第1章20~21節(新共同訳)P.776
「ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。
『わたしは裸で母の胎を出た。
裸でそこに帰ろう。
主は与え、主は奪う。
主の御名はほめたたえられよ。』」
奨励:どん底に 大地あり―永井隆博士の信仰
この3月、長年の念願であった長崎にある「永井隆記念館」を訪れることができました。もちろん長崎の平和公園や平和記念館も訪れたいと思っていましたが、それと同時に是非ともこの「永井隆記念館」を訪れたいと思っていました。それは、永井隆の生き方とその残された言葉に多くの感動を受けていたからです。
永井隆は一般に永井隆博士と呼ばれるように医師であり、また長崎医科大学(後、長崎大学医学部)で教鞭を執った人でもありました。簡単にその生涯を紹介しますと、永井博士は1908年(明治41年)に島根県松江市に生まれ、長じて1928年(昭和3年)に長崎医科大学に入学します。このとき浦上天主堂の近くのカトリック教徒の森山家に下宿しますが、森山家は隠れキリシタンの末裔でもありました(後に、この森山家の一人娘の緑と結婚することになりますが、このときはまだ信者ではありませんでした)。大学生活では勉学の傍らスポーツにもいそしみましたが、卒業を控えた1932年(昭和7年)5月に重い急性中耳炎を患い、聴覚に軽い障害が残ったため、当初志願していた内科医を諦めて物理的療法科(レントゲン科)を専攻することになります。その後、満州事変では軍医として1年間従軍しますが、帰国後の1934年(昭和9年)6月に浦上天主堂で洗礼を受け、また8月に森山緑と結婚します。そして、妻に導かれる形でいろいろな奉仕活動にも携わって行きました。その後、長崎医科大学の講師に就任した1937年(昭和12年)には、その年に勃発した日中戦争に軍医として出征し、1940年(昭和15年)に帰国後は助教授に昇任、博士号も取得します。しかし、戦争中、物資が不足する中で透視によるX線検診を続けたために被曝し、1945年(昭和20年)6月には被曝による白血病と診断され、余命3年と宣告されます。そして、そのような折の8月9日午前11時2分に、原子爆弾が長崎に投下されたのです。しかも、その爆心地は、永井博士がいた長崎医科大学から700メートルのところでした。そのため、永井博士は一命をとりとめますが重傷を負います。しかし、そのとき、応急手当てをしただけで救護活動に率先して取り組んだのです(このとき、自宅にいた妻の緑は亡くなりました)。永井博士は、その後、一時期生死を彷徨いますが、1948年(昭和23年)には、大学を休職し、「如己(にょこ)堂」(己の如く隣人を愛せよとの教えから)と名付けられた庵のような小さな家で療養生活に専念します。そして、ここで、後に有名になるいくつかの書物を執筆することになります。また翌年の1949年5月には、昭和天皇の見舞いを受けています。そして、1951年(昭和26年)5月1日、白血病による心不全で43歳の生涯を閉じました。5月14日に浦上天主堂で行われた市公葬(市主催の葬儀)には2万人が参列したと言われています(以上、片岡弥吉『永井隆の生涯』より)。
永井博士が残した書物や言葉の中で、ひときわ心を刺すものがあります。それは、敗戦の年の11月23日に浦上天主堂で行われた慰霊祭で、永井博士が語った「原子爆弾合同葬弔辞」というものです。この弔辞の中で永井博士も語っているように、長崎に原爆が落とされたのはほとんど偶然のことでした。元々は別の都市に落とされることになっていましたが、天候の加減で急遽予定が変更され、予備目標だった長崎に落とされることになったのです。しかも、狙いは軍需工場でしたが、投下時の雲と風の影響で北方にずれ、何と浦上天主堂の正面に流れ落ちたのです。日本におけるカトリック教会の聖地であり、隠れキリシタンの長い伝統を引き継ぐ浦上天主堂の前に落ちたのです。しかも、その時刻は、6日に広島に原爆が落とされたことを受け、大本営では降伏か抗戦かを決定する重要な会議が開かれていた時でした。そして、その夜、浦上天主堂は突然火を噴いて炎上しますが、その時刻は大本営において天皇陛下が「終戦の聖断」を下した時でもありました。そして、「終戦の大詔」が発せられた8月15日は、「聖母の被昇天の大祝日」に当たっていました。永井博士は、この弔辞の中で、「これらの事件の奇しき一致」は果たして「単なる偶然」なのか、それとも「天主[神]の妙なる摂理」なのかと自問します。しかし、その答えは明らかでした。永井博士は、こう語っています。「世界大戦という人類の罪悪の償いとして、日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇にほふられ燃やされたきよき子羊としてえらばれたのではないでしょうか」。「信仰の自由なき日本において迫害のもと四百年殉教の血にまみれつつ信仰を守り通し、戦争中も永遠の平和に対する祈りを朝夕絶やさなかったわが浦上教会こそ、神の祭壇に献げられるべき唯一のきよき子羊ではなかったでしょうか。この子羊の犠牲によって、今後更に戦禍を被る筈であった幾千万の人々が救われたのであります」。
永井博士は、原爆の傷がまだ生々しい時期に、原爆の犠牲になった浦上は、「世界大戦という人類の罪悪の償いとして」、「犠牲の祭壇に献げられるべき唯一のきよき子羊」であったと語ったのです。そして、その犠牲のゆえに今平和がもたらされたと語ったのです。それは、イエス・キリストが人類の罪を贖うべく十字架につけられたのと同じ歩みを浦上が歩んだことを語るものでした。イエス・キリストが罪のない神の子羊として、人々に代わって十字架につけられ、その贖いとなり、人々に神との和解と赦しをもたらしたように、浦上も聖なる地として神の子羊に選ばれ、人類の罪を贖い、神との和解と平和をもたらすために献げられたのだと語ったのです。そして、そのようにして、長崎が経験したどん底の悲惨な経験に意味と光を投げかけたのです。そして、人々に、そのどん底から立ち上がる力と勇気を与えたのです。わたしは、そこに、永井博士の深い信仰が表されているように思います。
永井博士は、今回の奨励題にした「どん底に 大地あり」という言葉を残しています。「どん底に 大地あり」。これは永井博士の生涯、そして長崎の原爆の歴史を知れば知るほど、ますます重みを増す言葉ではないでしょうか。永井博士は、その生涯の歩みにおいてもどん底を経験した人です。自らも白血病になり、余命3年と告げられた人です。また長崎に原爆が投下されるという人類の悲惨を直接経験し、しかも生き残った者として、その惨劇を目の当たりにし、その不条理な現実に対峙しなければなりませんでした。それは、正に、どん底を経験したということではないでしょうか。しかし、永井博士は、そのどん底で、もう一つの真実を知らされることになったのです。それは、そのどん底をも支えるものがあるということです。それは、神のみ手です。この世界を、その根底から支える神のみ手があるということを知ったのです。もはや落ちるところまで落ちて、それ以上落ちることないそのどん底で、そのどん底すらも支える神のみ手があることを知ったのです。永井博士は、それを「大地」と呼んだのではないでしょうか。どん底をも支える神のみ手が、揺らぐことのない大地として存在しているのです。永井博士は、この弔辞を締めくくるとき、聖書の一節を引用していますが、それはヨブ記に記されている「主与えたまい、主取りたもう。主の御名は讃美せられよかし」という一節です。新共同訳聖書で言えば、「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(1章21節)という言葉です。この言葉は、一切のものは神[主]のみ手の中にあることを語り、またそれゆえに神を賛美している言葉です。この言葉に、どん底を経験する中で、なお永井博士を支えた信仰があったと言えるのではないでしょうか。
「どん底に 大地あり」。わたしたちも、わたしたちの人生において、どん底を経験することがあるかもしれません。しかし、そこにも、そのどん底を支える神のみ手があるのです。大地があるのです。そのことを、今日、わたしたちは心に深く留めたいと思います。
祈り
「主イエス・キリストの父なる御神、み名を心から賛美いたします。2023年度の新しい年度を多くの新入生と共に始めることが許され、感謝いたします。どうぞ、この学期も、あなたと共に歩むわたしたちとならしめてください。特に、困難の中にある一人一人を、その根底から支えてください。そして、共に支え合い、仕え合いながら、大学生活を全うしていくことができますように、守り導いて下さい。主イエス・キリストのみ名によって、お祈りいたします。アーメン。」