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1月18日(水)全学礼拝ー菊地順先生 (賛美歌BGM付)

2023.01.18
オンライン礼拝

奨励者:菊地順(政治経済学科特任教授)

新約聖書:フィリピの信徒への手紙 第3章12~15節(新共同訳)P.365

「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。」

奨励:走り抜く人生

 

 

 今日の聖書箇所で、パウロは、「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、—-目標を目指してひたすら走ることです」と語っています。パウロは、キリスト者の人生を、しばしば「走る」という言葉で表現しました。コリントの信徒への手紙一9章24節では、「競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい」と語っています。またテモテへの手紙二4章7節では、「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走り通し、信仰を守り抜きました」と語っています。このように、パウロは繰り返し「走る」という言葉で自分自身の、そしてまたキリスト者の人生を語りましたが、こうしたパウロの言葉を反芻していますと、この「走る」という言葉は、キリスト者の人生に実にぴったりと当てはまる言葉だと、改めて思わせられるように思います。

 走るというのは、歩くのとも、たたずむのとも、違います。それはもっともっと動的であり、また直線的です。クルマもスピードが出れば出るほど直線的な走りになります。普通の人が猛スピードを出しながら蛇行運転をしたら、そのうちクルマはひっくり返ってしまいます。ですから、スピードを出せば出すほど、できるだけ直線的に走ろうとします。それと同時に、そうした直線的な走りは、目標が定まっていないとできません。どこに行こうか迷っているうちは、直線的な走りはできません。目標が定まった時に、そこに向かってひたすらに走るということができるのです。キリスト者の人生は、そうした走り方と似ているとパウロは言うのです。それは、なぜでしょうか。今日の聖書箇所で、パウロはその理由を、「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」と簡潔に語っています。「捕らえられている」、これもまた、キリスト者のあり方を語る重要な言葉ではないかと思います。パウロは、キリストによって捕らえられた人でした。ダマスコに向かう途上、光の中で復活のキリストに出会い、その人生を180度変えられた人です。その時パウロは、第三の天にまで引き上げられたと語っていますが、それは神の領域に触れる経験をしたということだと思います。しかし、それは、自分の力で成し得たことではありませんでした。それは、キリストによって捕らえられ、キリストによって引上げられるという経験であったのです。そして、そこで経験したことは、キリストにある復活の命でした。その前味(まえあじ)を、その時パウロは味わうことになったのです。そして、その後のパウロの人生は、その復活の命をただひたすら求めて走り抜く歩みとなったのです。今日の聖書箇所の直前では、「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、—-何とかして死者の中からの復活に達したいのです」と語っています。しかし、それは、地上の生活において獲得できるものではありませんでした。その前味を味わったとは言え、それはなお将来において約束されているものであったのです。ですから、パウロは、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません」、ただ「何とかして捕らえようと努めているのです」と語るのです。そして、その目標に向かって、ただひたすら、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」、それこそ手を前方に差し伸べながら、前へ前へと向かって一直線に走り続けたのです。

 それは、何とすがすがしい走りではないでしょうか。キリストに捕らえられ、キリストにある永遠の命を目指してただひたすらに走るというのは、爽快な感じすら受けるのではないでしょうか。そして、それが、キリスト者の走りであると言うのです。しかし、それは、キリスト者の走りであると同時に、真理を探究するすべての人の走りでもあると言えるのではないでしょうか。真理によって捕らえられ、その真理に向かって探究の道を歩み始めた人は、またパウロと同じように、ただひたすら走る人生へと招かれた人でもあるのではないでしょうか。そこにあるのは、捕らわれたゆえに、自分を捕らえたものに向かって、ただひたすら走り続ける人生です。「魅せられた魂」という言葉がありますが、魅せられた魂は、自分を魅了し、とりこにしたものに向かって、ただひたすら、それを獲得しようとして走り出すのです。それは、宗教の世界のみならず、学問の世界にも、芸術の世界にも、またビジネスマンの世界にも、それどころか日常生活の中にも見出し得る世界ではないでしょうか。出会いを通して捕らえられ、引き出され、それゆえに走り続ける人生があるように思います。そして、そうした、ただひたすら直線的に走れる人生こそ、すがすがしいだけではなく、また幸福な人生でもあると言えるのではないでしょうか。ヘブライ語の「真っ直ぐ」という言葉には、「幸い」という意味も含まれています。目標に向かって真っすぐに走ることができるとき、わたしたちは、真理に近づいていくだけではなく、また幸福な人生にも招かれているのです。

 新しい年が与えられました。この一年、それぞれの目標が明確にされ、それに向かってひたすらに真っすぐに走りゆく日々でありたいと思います。

 

 

祈り

「主イエス・キリストの父なる御神、新しい一年が与えられ、感謝をいたします。まだまだコロナ禍での生活が続いています。またウクライナでの惨劇も続いています。心乱されることの多い日々ではありますが、私たち一人一人の向かうべき目標が明確にされ、それに向かって邁進していくことができますように、導きと励ましをお与えください。主イエス・キリストのみ名によって、お祈りいたします。

アーメン。」