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1月19日(木)全学礼拝―金子毅先生(賛美歌BGM付)

2023.01.19
オンライン礼拝

奨励者:金子毅(政治経済学科准教授)

新約聖書:マタイによる福音書 第23章10節(新共同訳)P.45

「『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。」

奨励:生きて、在る主の言葉

 

 

 ある秋の日、一通のメールがあった。前に一緒に仕事をしたことのある人からだった。その内容は科研の誘いで、テーマがアイヌをめぐるポストモダンということだった。それで急遽、年末に三泊四日の日程で北海道に行くことになった。その途次、札幌に立ち寄った際、待ち合わせまで時間が余ったので、「時計台」に寄ることにした。クラーク博士のことは子どもの頃、耳にした「Boys,be ambitious」という言葉で知ってはいたが、ここで初めて「Be Gentleman」という耳慣れない言葉を知った。札幌農学校開校の際にクラーク氏が生徒一同に与えた訓示であり、その意味は「規則に縛られて行なうのではなく、自己の良心に従って行動する」ということと説明されていた。そしてこの言葉に秘められた精神は学生たちに継承されていったという。この言葉からはあたかも自己自身が行為の主体者であるかのように読み取られがちであるが、私には氏の教育観がキリスト教教育にあったことを考慮すると、この言葉の背後には隠された別の意味が存在するものと思われた。

 本日の御言葉は、自分という存在は神様から許されなければ何をも成し得ない者であるということを雄弁に物語っている。ことに教師という者は、人に教えるという立場にあり、それを自分は労することなく既に与えられているから与えるという生き方をしているという訳であるからこそ、自分こそ許されなければならない者、言葉を換えれば、自分こそ永遠に求め続けていかねばならない者、さらに換言すれば罪人の頭であるという認識になかなか達し得ない。それは結局、聖書を斜めに読み、その本質を他ならぬ自分に対して語り掛けられたものとして捉えていこうという認識につながり得ない私たちの弱さに他ならないものと考える。仮に聖書を私に語られた言葉として読んでいかないとしたら、それはいわば「自己不在の読み方」となってしまい、聖書の語る世界の深みも、御言葉から示唆される主なる神様への感謝の意味も生まれてこない。主、イエスの言葉に自分の照準を合わせていったとき、自分の醜さを自覚し、人前に大きな顔をすることの出来ない者という自覚に初めて至ることが出来るのである。クラーク氏の言葉を聞いて人生の指針としての主、イエスの御言葉の大切さに改めて気付いた次第である。

 

 

祈り

「お祈りいたします。自分が罪人だと知らない私たち人間は、主イエスの十字架に対してどうでもよいという気持ちになりがちである。そのような私たちの弱さを打ち砕いて下さい。あなたが私たちに弱さを教えるためにこの地上に来られたということを私たちが認識し、あなたを第一とする生活へと変えられるようにして下さい。

この祈りを貴い主イエスキリストの御名により御前にお捧げいたします。アーメン。」