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12月23日(金)全学礼拝―帆苅基生先生(賛美歌BGM付)
奨励者:帆苅基生先生(弘前大学教員、本学講師)
旧約聖書:イザヤ書 第9章5節(新共同訳)P.1074
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は、「驚くべき指導者、力ある神
永遠の父、平和の君」と唱えられる」
奨励:クリスマスがやってきた!
こんにちは、「キリスト教と文学」という授業を担当しています、帆苅基生です。
今回の聖書箇所は、イエス・キリストの生涯を題材にした「救世主」という意味があるヘンデルが作曲した「メサイア」の中で使われ、イエス・キリストの誕生〈クリスマス〉を表しています。私はこの聖書の箇所は〈クリスマス〉というものがどういうものか短いながら凝縮して私たちに伝えてくれているような気がするのです。
それを強く感じたのは、今から七年前に母が天に召された年のことです。私は両親ともキリスト教徒でしたが、なんとなく世の中の習慣で、身内に亡くなった人がいるので、いわゆる喪中として過ごし、年賀状も出さないので喪中のはがきを出しました。
母がいなくなったことに加え、いつもの年末年始を迎えることができないんだなあということがなんだかとても寂しく感じました。そんな思いをしていたところ、喪中のはがきを見た、年賀状のやりとりを続けている高校時代の担任の先生が、年賀状を送れない代わりにとクリスマスカードを送ってくれたのです。そこには今日の聖書の言葉が書かれてあったのです。私はこの「わたしたちのために生まれた」、「わたしたちに与えられた」という言葉に、その時とても心を打たれるような思いをしました。
「身内に不幸」と言いますが、年末年始のお祝い事からも排除され「不幸」な人とされている、そんな私にも今年もちゃんとクリスマスがやってきた!と思いました。この聖書の言葉にある「わたしたち」の中には、世間的に「不幸」とされている私も入っているんだと思った時、クリスマスの意味が今までよりも少し分かったような気持ちになりました。
イエス・キリストが与えられたこの喜びは一部の人だけのものでしょうか。私はクリスマスを前にして、このクリスマスの根っこにある喜びをあらゆる人と共有したいと思っています。それは神様が私たちを愛し、私たちの心の声を受け止めて共に歩んで下さるイエス・キリストを「わたしたちに与え」て下さったと聖書に書かれているからです。この喜びはクリスチャンだけのものではなく、たとえイエス・キリストを救い主と信じていない人もその喜びの中に包まれて迎えられているのだと思います。
今、喜びの中にいる人も、悲しみの中にいる人にも、「わたしたちの」ためにイエス・キリストはともにいてくださっている、そのような方を神様が「わたしたちに与え」て下さったのがクリスマスの出来事なのではないでしょうか。
イエス・キリストが「わたしたちのために生まれた」ことをともに祝いたいと思います。
クリスマスおめでとうございます。
祈り
「天の父なる神様 あなたが、わたしたちすべての人のためにイエス・キリストを与えてくださったことを感謝します。いかなる時もともにいてくださるイエス・キリストの愛に包まれながら、わたしたちも隣人のことを愛することができますように励ましてください。このお祈りを愛するイエス・キリストの御名を通して御前にお捧げします。アーメン。」