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11月22日(火)全学礼拝―木村太郎先生(賛美歌BGM付)

2022.11.22
オンライン礼拝

奨励者:木村太郎先生(心理福祉学部兼人間福祉学部チャプレン)

新約聖書:マタイによる福音書 第5章13~16節(新共同訳)P.6

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

奨励:「あなたがたは地の塩、世の光である」

 

 

イエス・キリストは、山上の説教という奨めの中で、「あなたがたは地の塩である」(13節)、「あなたがたは世の光である」(14節)とお語りになりました。「地の塩」、「世の光」というたとえを通して、この世界で生きているわたしたち一人ひとりが、どのような存在であるかを示そうとなさったのです。

 

塩とはとても身近なものです。台所に塩がない家はないと言っていいでしょう。料理の味付けに必要不可欠なものです。また、食物の腐敗を防ぎます。一方、光とは周りを照らすものです。例えば、蝋燭は自らを削りながら周りを明るくします。

 

そのような塩と光の価値は、それ自体にあるというよりも、周りを引き立てることにあります。塩は目立つことはないけれども、料理と食物を引き立てます。光は暗闇の中にある人や物を引き立てます。

 

キリストがこのたとえを通してお語りになっておられるのは、わたしたち一人ひとりの隣り人への在り方です。塩のように目立たない仕方で、蝋燭の光のように自らを小さくしつつ隣り人に仕えていく在り方こそ、わたしたちが促されている生き方であるということです。

 

しかし、ここで1つ気づかされるのは、「あなたがたは地の塩となりなさい」、「あなたがたは世の光となりなさい」とは言われていないということです。つまりキリストは、「今、あなたがたは地の塩、世の光ではないけれども、心を入れ替えて、そのような生き方をしなければならない」とお語りになってはおられないのです。

 

そうではなく、わたしたちはもう既に地の塩なのです。世の光なのです。神さまは深い愛をもって、わたしたち一人ひとりをそのような尊い存在としてこの世界に生み出してくださったのです。

 

そして、このことを語っておられるキリストもまた、自ら地の塩、世の光として、この世を生き抜かれました。キリストは、徹底的に自らを小さくし、隣り人へと仕える歩みをなさいました。それは、馬小屋の飼い葉桶での誕生から、十字架での死に至るご生涯に表れています。

 

そのキリストのご生涯について、パウロという人は次のように書きました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピの信徒への手紙2章6〜8節)。

 

神さまは、わたしたち一人ひとりに尊い命を与え、地の塩、世の光としての価値を与えてくださっています。そして、徹頭徹尾、地の塩、世の光として生き抜かれたイエス・キリストの歩みに連なる者としてくださっているのです。

 

 

祈り

「憐れみ深い天の父なる神さま、あなたを仰ぎ見つつ、この世界において隣り人に仕えていく歩みへとさらに押し出してください。そのために、繰り返し、聖書に証しされているあなたの御子イエス・キリストの姿を思い起こさせてください。これらの祈りと願いを、主の御名によって祈ります。アーメン。」