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11月25日(金)全学礼拝―鄭鎬碩先生(賛美歌BGM付)

2022.11.25
オンライン礼拝

奨励者:鄭鎬碩(政治経済学科教授)

新約聖書:ローマの信徒への手紙 第5章1~5節(新共同訳)P.279

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

奨励:「苦難と希望」

 

 

 2か月前、私の従兄弟が天に召されました。まだ30代前半で、しかも結婚して一年も経ってないうちに突然癌が見つかり、入院して数か月で旅立ってしまいました。残された家族は、衝撃に震え、今も苦しんでいます。

 

 従兄弟の父親は教会の主任牧師です。私は度々オンラインで彼の説教を聞きますが、先日、息子のことを報告する彼の声は、淡々としてはいたものの、その顔には底知れぬ絶望感や無念さが暗い影を落としていました。その生々しい痛みは、画面越しの私にまで、はっきりと伝わりました。叔母も、何をしても息子の顔が頭から離れず、涙が止まらない日々を送っているそうです。彼の家族は皆堅実なクリスチャンですが、だからといって災いから逃れるはずはなく、またそうした人間的な苦難の重みが少しでも軽くなるわけでもないことを、私は改めて思い知りました。

 

 先日、韓国では、多くの若者が命を落とす事故が起こり、その翌日、インドでも多くの人たちが犠牲となる惨事がありました。ロシアのウクライナ侵攻により、既に6千人近くの民間人が亡くなっており、この3年の間、パンデミックによる世界の死者は1500万人に上っていると言われています。これらの夥しい死は、人々をどれだけ苦しめ、絶望させ、また心に深い傷を刻んだのでしょう。その一端を想像してみるだけでも、数字などでは決して表せない苦痛の重みに圧倒されそうです。

 

 使徒パウロは、「苦難をも誇りとします」と書いています。苦難は、ただ人を苦しめるだけであり、そこには何の意味も、効用も、価値もないはずなのに、幾分極端に思えます。さらに、彼は、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」と、苦難を希望に繋げています。これは、人間の苦難を、尊い栄光や神の約束する希望と対立させるのではありません。苦難と希望の陳腐な二項対立を打ち破るかのように、苦難そのものから希望が生み出されるプロセスを想定しており、しかも「わたしたちは知っている」と言うのです。

 

 できることなら苦難を避けたいというのは、人間としては当然の願望です。だからこそ、苦難の只中から希望を導き出そうとするパウロの大胆な論理には正直呆気に取られます。しかしながら、それでもここから読みとれる一つのメッセージは、キリスト教でいう祝福や救いは、苦難と無縁なものではないということでしょう。

 

 何よりも、キリスト教は、教えに従って信仰生活に邁進すれば、その「代価」として願いを叶えてくれるようなものではありません。多くの宗教において、人々は絶対者としての神に健康や安全を祈り、また成功や金運をも求めます。ところが、聖書は、「信じれば苦難に遭うことはない」、あるいは「あなたを苦しさから救い出してあげる」などとは言っておらず、苦難の問題に対して何らかの明確な「対策」を示してないようです。

 

 パウロのいう苦難から忍耐が、忍耐から練達が、そして練達から希望が生まれてくるような過程の詳細を理解することはとても難しいでしょう。ただ、いかなる苦しさも結局、希望が芽生える土壌であり、そうした希望は決して欺くことがない。しかも、これを「わたしたちは知っている」と言い切るパウロの言葉は、安直な慰めや敗北主義、現実逃避などとは程遠いものであり、それこそ逆説な形で私たちに何かを強く訴えているような気がします。

 

 そもそもキリスト教が災難をよけるための「厄祓い」や「福」を得るための手段ではないことは明らかです。ただ、問題はその先です。私たちは、何を望んで神を信じるのでしょうか。何を祈り、何を目指すのでしょうか。あるいは、神は、この後を絶たない災い、数々の苦境を通して、私たちに一体何を求めておられるか、聞かなければならないかも知れません。すなわち、苦難に際してのお祈りを通して、何かの行動、何らかの変化を求められているのは神様ではなく、むしろ私たちの方なのかも知れません。災難の絶えない時代に、苦難から目を逸らさずに、やがては生まれてくるはずの希望について、そして神の愛について深く考えたいと思います。

 

 

祈り

「父なる神様、苦しみの絶えない時代です。私たちは、「なぜ私に、なぜ私の家族にこんな不幸が降りかかるのか」、「どうすればこの苦しみから逃れうるか」と嘆きます。しかし、神様は、既に一人子を十字架につけ、その苦しみを通して私たちへの愛を示されました。この出来事によって私たちの心には、主の愛が注がれ、満ち溢れています。このことを覚えることができるように導いてください。希望は私たちを欺くことがない。この御言葉を頼りにし、苦難から希望に向かって一歩ずつ進んでいけるよう導いてください。また、苦しみや痛みを抱えた人々に心を開き、寄り添うことができるようにしてください。この祈りをイエス・キリストの御名によってお捧げ致します。アーメン。」