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11月16日(水)全学礼拝―山口博先生(賛美歌GBM付)
奨励者:山口博(聖学院院長・キリスト教センター所長)
新約聖書:ペトロの手紙一 第3章8~12節(新共同訳)P.431
「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。
「命を愛し、
幸せな日々を過ごしたい人は、
舌を制して、悪を言わず、
唇を閉じて、偽りを語らず、
悪から遠ざかり、善を行い、
平和を願って、これを追い求めよ。
主の目は正しい者に注がれ、
主の耳は彼らの祈りに傾けられる。
主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」
旧約聖書:詩編34編13節〜23節(新共同訳)P.865
「喜びをもって生き
長生きして幸いを見ようと望む者は
舌を悪から
唇を偽りの言葉から遠ざけ
悪を避け、善を行い
平和を尋ね求め、追い求めよ。
主は、従う人に目を注ぎ
助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。
主は悪を行う者に御顔を向け
その名の記念を地上から絶たれる。
主は助けを求める人の叫びを聞き
苦難から常に彼らを助け出される。
主は打ち砕かれた心に近くいまし
悔いる霊を救ってくださる。
主に従う人には災いが重なるが
主はそのすべてから救い出し
骨の一本も損なわれることのないように
彼を守ってくださる。
主に逆らう者は災いに遭えば命を失い
主に従う人を憎む者は罪に定められる。
主はその僕の魂を贖ってくださる。
主を避けどころとする人は
罪に定められることがない。」
奨励:「生き方:ペトロの場合」
この世を生きていく時には、さまざまな生き方があり、そこにはさまざまな意見があるようです。どの生き方が正しいのでしょうか。新約聖書に登場するペトロの場合は旧約聖書を取り上げて生き方を決めていきました。わたくしどもの場合で言えば聖書全体です。今この文を読まれている学生諸氏は聖書と無縁の生活をしてこられた方が大半かと思います。聖学院大学はキリスト教を標榜する大学ですので、今回はペトロの生き方を紹介できればと思います。キリスト者が生きるときには、人間の意見だけでは不十分と考えます。神様のお考えを知ることが最も大事なことだと信じているからです。
そこでペトロが引用しています詩編34編13節を紹介しますと、「喜びをもって生き 長生きして幸いを見ようと望む者は」と綴られています。これを望まない人はいないだろうと思います。そのためにはどのように生きたら良いのでしょうか。旧約聖書の詩編は、人の悪口を言うなと勧めています。単純なことです。同時に難しいことです。
ヤコブの手紙3章3節には「馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。」と綴られています。
「舌」の使い方だけが問題ではありません。生活全体を持って悪を避け、善を行うことがいのちに通じる道だと聖書は語るのです。それに続いて「平和を尋ね求め、追い求めよ」と述べています。「平和」とは「平安」と言う字です。以前の口語訳では「やわらぎ」と訳されていました。ローマの信徒への手紙5章1節にあるように、信仰によって義とされ、キリストによって神に対して平和を得ていること。つまり神に赦され安心して神にお任せする生活があってこそ人とやわらかく生活ができるのではないでしょうか。信仰のことは神様が生きて働いておられることを信じるのでなければ力にはなりません。詩編34編23節に記されているようにペトロは「主を避けどころとする人」として生きたのです。わたくしどもも聖書のことばに導かれつつ歩みたいと願うのです。
祈り
「主イエス・キリストの父なる神様、尊い御名を讃美いたします。文書という形ですが、共に礼拝を捧げる恵みを感謝いたします。混沌とした世の中です。生き方に不安を覚える学生がおりますならば、どうぞあなたご自身が聖書の御言葉をもって導いてくださいますように。願い、感謝の祈りを主の御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。」