お知らせ

お知らせ詳細

Information Detail

11月18日(金)全学礼拝―洛雲海先生(賛美歌BGM付)

2022.11.18
オンライン礼拝

奨励者:洛雲海(政治経済学部チャプレン)

新約聖書:マルコによる福音書 第7章31~37節(新共同訳)P.75

「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

奨励:「開け」

 

 

 ヘレン・ケラーという女性がいました。目が見えず耳も聞こえない人でした。彼女が言いました。「目が見えないということは、人と物とを切り離す。耳が聞こえないということは、人と人とを切り離す」。単なる肉の目、肉の耳を越えた目と耳の話です。聞くことのできる耳を持つか持たないか。それは人との関係においても神さまとの関係においても、決定的なことです。

 

 しかし、人の話をきちんと聞けなくなるときのある私たちです。聞こうとしないときがありますし、分かろうとしないときだってあります。なぜでしょうか。その人を受け入れないからです。耳だけでなく、私自身が開かれていないのです。

 

 その時、耳が聞こえないために「舌の回らない人」がイエスさまのところに連れて来られました。何か言おうとすると舌がもつれてしまう人でした。ひょっとすると、単に肉体的に耳が不自由であることを越えて、自分だけの世界に閉じこもってしまっている人、それで自分の言いたいこともよく話せなくなっている人だったのかもしれません。そうであれば、この人の痛みは、私たちの誰もが経験し得る痛みでもありましょう。ヘレン・ケラーの言葉が思い起こされます。「耳が聞こえないということは、人と人とを切り離す」。

 

 イエスさまは驚くべき行動をとられました。ご自分の指をその耳の聞こえない人の両耳に差し入れ、なんとご自分の唾をつけてその人の舌に触れられたのでした。ちょっと考えられない行動です。しかし、その舌の回らない人は逃げ出さず、イエスさまの唾を自分の舌に受け入れました。その時、イエスさまは「深く息をつ」いて、「エッファタ(開け)」とおっしゃったそうです。するとどうなったでしょうか。「たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」(7:35)と聖書は証言します。

 

 言葉をはっきり語るためには、舌がよく動くことが必要です。そのために大切なのは「開かれる」ことです。まず耳が開かれなければなりません。さらに心が開かれる必要があります。「開かれる」こと、このことが重要です。

 

 力ある言葉は人を変え、人を動かし、出来事を起こします。そうした力ある言葉は忘れ難いものとなりましょう。イエスさまの「エッファタ」という言葉がそうでした。「これは『開け』という意味である」と書かれています。全人的な意味を持つ命令です。キリストのこのひと言によって、その人は耳だけでなく、その人自身が開かれたのでした。

 

「エッファタ」。今日、私たちもこの言葉を聞きました。この言葉によって、私たちの耳も開かれ、心も魂も霊も私たち自身も新しく開かれますように。

 

 

祈り

「天のお父さん、「エッファタ(開け)」とキリストが言われました。どうぞ私たちの耳を開いてください。私たち自身、開かれた者となれますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」