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11月15日(火)全学礼拝―熊江秀一先生(賛美歌BGM付)

2022.11.15
オンライン礼拝

奨励者:熊江秀一(日本キリスト教団大宮教会牧師)

新約聖書:ヨハネの黙示録 第3章20節(新共同訳)P.457

「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」

奨励:「スイッチオフ」

 

 

 私が仕える大宮教会には幼稚園があります。園の玄関には、様々な絵が飾られます。ある時、家の戸を叩くイエスさまの絵が飾られました。この戸は内側からしか開けることができません。イエスさまは戸を叩き、扉が開かれるのを待っているという絵です。

「見よ、わたしは戸口に立って扉を叩いている」。

 イエスさまは私たちの心の戸を叩いておられます。そして私たちが扉を開けてイエスさまを迎える時を待っておられます。

 しかし私たちはこの戸を叩くイエスさまのことに気づかないものです。そして自分の思いのままに歩み、迷ってしまいます。

 私は大学時代、京都で過ごしました。アルバイトをしてオフロードのバイクを買い、よくツーリングに出かけました。ある日、友人と二人で京都の山奥にバイクで出かけました。山越えの道を外れ、山道に入り、自然の中をバイクで走って、時間を忘れて楽しみました。しかし次第に日が落ちてきました。早く元の山越えの道に戻らなければ夜になってしまうと、バイクを走らせました。しかしどんなに走っても山越えの道に戻りません。実は反対方向に走っていたのです。すっかり日も落ちてしまいました。「もうだめだ。今日は野宿かもしれない。一度休もう」と、エンジンを止め、ライトを消しました。真っ暗です。京都の山奥は不気味なほど静かで、闇に包まれて、不安とおそれを感じました。しかしその時、闇の中、遠くの方にそれまで見えなかったかすかな光が、浮かびあがってきました。集落の明かりでした。「あそこが集落だ、山越えの道だ」。その光に向かって出発し、私たちは山越えの道に戻り、無事、帰ることができました。

 今でもその時のことを夢に見ることがあります。道を外れ、自分の行くべき道はこっちだとつっ走る。それが反対の方角であることも分からずに・・。「もうだめだ」と思い、歩みを止めて、自分の光を消す。すると自分を包む闇に気づかされ、闇の深さに押しつぶされそうになる。しかしその時、初めて見ることができる。神の導きの光を。

 自分の光を輝かせ、つっ走っていた時は見えなかったけれども、立ち止まり、自分の光を消した時、かすかな光を、戸を叩くイエスさまに気づくことができるのです。

 夜、部屋の中から星を見る時、どうするでしょう。明かりを消して、スイッチをオフにして見ます。私たちも自分の光を消す時が大切ではないでしょうか。その時、それまで見えなかった神さまの光が、私たちの進むべき道が見えてきます。

 自分の光を消すスイッチオフの時、それは礼拝です。静まって祈り、聖書の言葉を聞く時です。その時、私たちは心の戸を開いてイエスさまをお迎えすることができます。その時、私たちは歩むべき道を示され、祝福の道が示されます。

 

 

祈り

「天の父なる神さま、自分の光を消して、あなたの光に気づく心を与えて下さい。心の扉を開いて、イエスさまを迎える信仰を与えて下さい。この礼拝に招かれた一人一人がイエスさまの愛と祝福に生きる人生を歩むことができますように。イエスさまの御名によって祈ります。アーメン。」