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10月20日(木)全学礼拝―安藤守先生(賛美歌BGM付)
奨励者:安藤守(女子聖学院中学校高等学校校長)
新約聖書:コリントの信徒への手紙二 第1章4節(新共同訳)P.325
「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」
奨励:「神の慰め」
2016年12月に亡くなられた渡辺和子先生をご存じでしょうか。ノートルダム清心学園元理事長であり、「置かれた場所で咲きなさい」という本を書かれたことで有名な先生です。その渡辺和子先生には、大きな心の傷がありました。それは、先生が9歳の時、陸軍教育総監であった父親の渡辺錠太郎が、先生の目の前1mのところで、陸軍青年将校に機関銃で殺害されるという経験です。世にいう2.26事件です。そんな経験を持たれる先生の対談記事を読んだことがあります。
対談の中で、先生がうつ病や膠原病などを患ったことで何か人生観が変わるようなことがありましたかとたずねられます。先生は、「病気をして発想を転換することを学びました。」と答えられました。最初は、なぜ自分が病気になったのか、なぜ自分に理不尽なことが起きるのか、神様に不平・不満を込めて問うたそうです。さらに、教会や学校の重責を担ったときも、「自分には荷が重すぎる、なぜ自分なのですか」と神様に問うたそうです。
この記事を読んで、かつて勤めていた学校の同僚だったF先生のことを思い出しました。F先生は、現在、関西にある学校にお勤めですが、その学校に移られて奥様のがんが発見されました。それから4年間、がんとの闘いが続きましたが、しだいに体はがんに蝕まれ弱っていき、とうとう天に召されました。F先生は、後日こんなことをおっしゃっていました。「妻の病気や死に対して、最初は『なぜ』という疑問しか出て来ませんでした。しかし、今は『何』ということが大事だと考えています。妻の死から何を学び、何をしなければならないのか、それが大事なことだと思っています。」
私たちは災難や不幸な出来事に遭遇すると、自分の運命を嘆き、悲しみ、絶望し、「なぜ」という言葉を口にします。多くの人は、そこで立ち止まってしまい、時計の針が止まってしまいます。F先生は、奥様の病と死、それに伴う苦しみや悲しみは、神様から与えられたもので、何か意味があり自分がしなくてはならないことがあると考えたのです。
渡辺和子先生は、自分の大学の学生が自殺未遂をしたとき、その学生に「私もうつ病になったことがある」と言って寄り添ったことがありました。その時、自分が病で苦しんだことは、このためだったと語っておられました。それから渡辺先生は、「なぜ」という不満を口にするのではなく、「何のために」と考えるようになったそうです。
渡辺先生は、人生の様々な落とし穴に落ちて初めて見えてくるもの、気がつくものがある、と語られています。渡辺先生は、病という穴に落ちることによって、病を患った人の苦しみと不安を理解できたのです。同僚であったF先生は、奥様を病で亡くされて、病と闘う家族の苦しみと悲しみを理解できるようになったのだろうと思います。そして二人とも他者に寄り添う優しさを身につけられたのだろうと思います。
私たちは、様々なことに出会い、経験をします。その経験を一時の出来事として終わらせるのではなく、自分を成長させるために、また他者に優しく寄り添うことができるようになるために、その一つ一つの事柄を振り返り、神がそこに込められた意味を深く考えられればと思います。
祈り
「天の父なる神様、今日も「生きよ」と声をかけてくだり、感謝いたします。私たちが、どのような境遇にあっても、あなたの声を聴くことのできる心の耳をお与えください。そして、その声に従って歩む素直な気持ちをお与えください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって御前におささげ致します。アーメン。」