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10月18日(火)全学礼拝—髙橋愛子先生(賛美歌BGM付)

2022.10.18
オンライン礼拝

奨励者:髙橋愛子(副学長・政治経済学科教授)

旧約聖書:列王記上 第19章11~13節(新共同訳)P.566

「主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」

奨励:「静かなる細き御声」

 

 

 皆さん、おはようございます。異例な酷暑の夏が去り、爽やかな季節を迎え、秋学期が始まりました。コロナ感染に揺れた二年半の中で私たち一人一人が大きな試練を与えられ、出口がないのではという不安や悲観に包まれましたが、今、対面でのキャンパスライフを再開することができつつあることを深く感謝しています。

 今朝は、与えられた聖書の言葉から二つのことを皆さんと一緒に考えたいと思います。旧約聖書には多くの預言者が出てきますが、預言者は神さまからの呼びかけ(calling)に応じて、託された言葉を人々に伝えるという重い役割を背負う人々です。その一人、エリヤという預言者が、彼を殺そうとする人々から逃れて山奥深い洞穴に隠れている場面が描かれている箇所です。恐怖と不安で一杯のエリヤは隠れていたのですが、神さまから「そこを出て、…主の前に立ちなさい」との声が聞こえます。私たちは危険や恐怖から当たり前のように逃げ回り隠れます。しかし、隠れていないで、出て来て、ひとり主の前に立つ、ということを神さまは求めておられ、それを恐れる必要はない、その時初めて、主の呼びかけが具体的に与えられる、そうしたことをこの場面から私は教えられます。

 二つ目のこと、それは、呼びかけてくださる神さまは、嵐や地震や炎といった天変地異の中で力任せに大暴れされるような方ではなく、「静かな細い、ささやくような声」で語りかける「ことば」の中におられる、ということです。一人でいるよりは大勢でいるほうが何となく安心、しーんとした静けさの中にいるよりは、多くの人と大声で騒いでいる方が楽しい、そんな経験を誰もがもっていることでしょう。私もそんな一人です。人々が和合して共に在ることを神さまは祝福してくださる、ということも聖書には記されています。

 しかし、神さまの語りかけの前に立つときは、喧騒の中では決して聴きとることができないような静かな細い声、ささやくような声でお語りになられる、だから、静謐の中にひとり身を置くことが求められるのだと聖書は教えています。

 私は「静謐(せいひつ)」という言葉が好きです。「静」も「謐」もいずれも「しずかなこと」という同じ意味をもち、「静謐」は「静かで穏やかなこと、落ち着いていること」とあります。私たちは今、余りにも多い情報や音の喧騒に囲まれ、何かしながら音を聞くような時代を生きていて、むしろ、本当に静かな環境、時間に身を置くことは至難の業ではないでしょうか。季節によって移り変わる虫の声にすら気づかない、そして常に心はざわついている、落ち着かない、不安や焦燥感に襲われる日々。

 こうした時代だからこそ、いま、「時間」という資源をたくさん持っている大学生の皆さんには、時には、敢えて「静謐」の中で、心が穏やかに落ち着くまで静かに耳を澄ませる時間を大切にしてほしいと思います。そのようなときこそ、神さまは最も近くにおられるのだと思います。祈ります。

 

 

祈り

「在天のわたしたちの神さま。今朝も、文書を通してではありますが、あなたに想いを馳せ、聖書のみことばに耳を傾けるときを与えてくださいました恵みに感謝いたします。余りにも情報が氾濫し、いつも追われ続けて立ち止まることのできない喧騒と焦燥感を生きる時代ですが、静けさの中で、静かな細い声、ささやくような声で語りかけてくださるあなたの御声を聴く心を、静謐な魂を、私たちにお与えください。この祈りを、私たちの救い主、尊いイエス・キリストの聖名をとおしてお捧げいたします。アーメン。」