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10月13日(木)全学礼拝―村松晋先生 (賛美歌BGM付)

2022.10.13
オンライン礼拝

奨励者:村松晋(日本文化学科教授)

新約聖書:フィリピの信徒への手紙 第2章10~11節(新共同訳)P.363

「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」

奨励:「私たちが共同の礼拝を行うのは何故か」

 

 

 聖学院大学では学期中に全学礼拝があり、日曜は教会の礼拝に出席することを勧めています(※コロナ禍において現在中断中)。私たちは何故、一定の時、一定の場所に集まって礼拝を行うのでしょうか。今日はこの問題をご一緒に考えたいと思います。

 

 平和運動への尽力やカール・バルトの翻訳で知られた井上良雄(1907年~2003年)は、説教集『エデンからゴルゴタまで キリスト教講話集 Ⅱ』(新教出版社、2012年)に収められた一編「教会は何のためにあるか」(1971年8月8日 東駒形教会主日礼拝説教)の中で次のように問いかけています。いわく、「教会とは一体何なのか。私どもが日曜日ごとにこうして教会に集まるのは何のためなのか」(『エデンからゴルゴタまで』、68頁)と。

 

 一般に教会は「慰めのみ言葉を聞くところ、そういう慰めの言葉を求めて集まるところ、そのように理解されている場合が多い」(同)。しかし「単に何か良い話を聞いて宗教的な情操を養われるとか、人格を修養するとかいうようなことであれば、集まるということは便宜的なことであって、何ら本質的なことでは」(同、84頁)ない。「ラジオで説教を聞いても、自宅で説教集を読んでもいい」(同)。

 

 井上はこう反問することで、キリスト者が「日曜日ごとに」「教会に集まる」ことの目的を次のように定義しました。いわく「私どもが教会に集まるのは何のためか。それは私どもが主に対して賛美告白をするため」(同、70頁)であると。

 

 井上は「この賛美告白の中心」(同、76頁)をフィリピの信徒への手紙2章11節の「『イエス・キリストは主なり』という短い言葉」(同)に置きます。そして「イエス・キリストは主なり」ということを知らされた者が「一定の時に一定の場所に集まって、イエス・キリストを礼拝するという事実」(同、83頁)それ自体、「『イエス・キリストは主なり』という告白」(同)だとして次のように呼びかけました。

 

 「私どもはいわばイエス・キリストを中心として結集するのです。イエス・キリストを中心とした共同体をここに形成する、そのことによって、イエス・キリストが主であるということを証しするのです。世界の主は金でも権力でもなくて、あの二千年前ナザレの片田舎で生まれたあの方が私どもの主であり世界の主であるということを証しするのです。」(同、85頁)

 

 井上のこの言葉は、何故私たちは一定の時、一定の場所に集まって礼拝を行うべきなのかを明確に説明しています。このことを理解して、一人でも多くの方がご一緒に礼拝に連なり、「金でも権力でもなくて、あの二千年前ナザレの片田舎で生まれた」イエス・キリストこそ、「私どもの主であり世界の主」であることを証ししてくださることを願ってやみません。お祈りいたします。

 

祈り

「神様、文書礼拝の形ではありますが、今日も私たちを神様の御名において集めてくださり心より感謝申し上げます。私たち聖学院大学に連なる者は、この全学礼拝を通し、全国の、否、全世界のキリスト者と共に、イエス・キリストこそ「私どもの主であり世界の主」であることを、たゆみなく発信し続けてまいりたいと存じます。どうかこの小さき群れを力づけ、神様にふさわしいものとして歩ませてください。この一言の感謝と願いを、イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。」