お知らせ

お知らせ詳細

Information Detail

10月12日(水)全学礼拝―關橋賢先生 (賛美歌BGM付)

2022.10.12
オンライン礼拝

奨励者:關橋 賢(日本キリスト教団原市教会牧師)

新約聖書:ルカによる福音書 第15章21~24節(新共同訳)P.139

「息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。」

奨励:「子と呼ばれる資格なんて要らない」

 

 

 わたしが好きな小説の一つは『アルプスの少女ハイジ』という作品です。アルプス地方にやってきた少女ハイジが豊かな自然にふれながら、人間関係を築いていく物語として描かれています。わたしが初めてこの原作の小説を読んだ時、物語の主人公はハイジのおじいさんではないかと思いました。おじいさんは結婚して間も無く妻を亡くします。その後、大工として生活していた息子を事故で亡くし、その妻も程なく亡くなります。息子の死がきっかけにおじいさんは神と人を嫌い、山の上に小屋を建てて一人暮らしを始めます。そこへ叔母が引き取って育てていた孫のハイジがやってきて物語が展開していきます。ハイジとの交流が深まった原作の後半では、ある夜、放蕩息子の話の本をハイジが読み、寝てしまった後で、おじいさんは一人、涙しながら祈ります。「神様、わたしは神様に対して罪を犯しました。わたしはあなたの子供と呼ばれる資格はありません」

 そう祈った次の朝、おじいさんはハイジと教会の礼拝にでかけます。神と人を遠ざけるようになったおじいさんはハイジと過ごす中で、次第に喪失感や絶望が癒されていきました。そして長く遠ざけていた教会の礼拝に出席し、自分の罪を懺悔します。そして村人との交流を取り戻し、神と人に対する信頼を取り戻し始めます。このおじいさんの物語は、深く傷を負い、神にも人にも絶望し、信頼を失ってしまったどうしようもない人間であっても、神様によって機会が与えられ、癒され、再び信頼を回復することができる、人間の可能性を示しているとわたしは思います。

 聖書の「放蕩息子のたとえ」では、息子二人のうち、弟がお父さんの財産を半分分けてもらい、旅先で浪費してしまいます。はっきり言って、どうしようもない息子です。そしてボロボロになって帰ってきた弟の方にお父さんが駆け寄って抱きしめ、宴会を始めます。お父さんの方もどうかしています。どうしようもない息子に対して一言でも叱ろうとしません。この聖書のたとえ話はどうしようもない人間と、その人間を赦そうとする、どうかしている神様を描いています。わたしの知り合いの関野和寛牧師の表現を借りると、この親子は狂っています。そして兄は弟が帰って来て親が弟のための宴会を開いているのを聞き、激怒します。それはごく当然のことです。真面目な自分のために一度もプレゼントもしたことのない父が、どうしようもない弟が帰ってきた時に宴会を開き、しかも指輪、履物、子牛などたくさん高価なプレゼントをしている。兄は父にくってかかります。一番まともなのは兄のように思えます。しかし、これでいいのだとお父さんは言い切ります。それが神様だというのです。子と呼ばれる資格?そんなもの神様はどうでもいいのです。子と呼ばれるような資格はなくても、生産性も成果も立派な行いや態度がなくても、あなたの存在そのものを神様は受け止めてくださるのです。

 

 

祈り

「主イエス・キリストの父なる神様 わたしたちの世界には喜びや楽しみの数よりも悲しみや絶望の方が多いかもしれません。すぐには癒えない心の傷や自分の中での葛藤、自分の弱さや痛みと日々向き合いながら生きています。あなたに子と認められるほどの価値も資格はありません。しかし、それでも良いと、あなたはわたしたちの存在そのものを抱きしめ受け止めていてくださる。その事を忘れずに日々過ごせますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」