お知らせ詳細
Information Detail
9月28日(水)全学礼拝 シリーズ礼拝 ― 聖書が語る平和 ― 猪瀬桂二先生(賛美歌BGM付)
奨励者:猪瀬桂二(心理福祉学科准教授)
新約聖書:マタイによる福音書 第26章47~48節(新共同訳)P.54
「12人(弟子)の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民衆の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒をもって一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。」
奨励:シリーズ礼拝 ― 聖書が語る平和 ― 「誤った判断の民衆は、時に「剣や棒」を握って個人に向かって来る」
今回「聖書が語る平和」をテーマに、奨励をさせて頂く機会を頂き感謝いたします。
私は、「人の心を分断して災いに導く」その要素には、①個人と個人、②個人と権力者(国家)、③権力者間(国家と国家)、④権力者と民衆の4つの関係性があるのではないかと考えています。
例えば、これを今回のロシア軍のウクライナ侵攻(戦争)で見ると、始めはロシア軍による一方的な侵攻(③の国家間の「軍と軍」との戦い)でした。しかし、戦火が拡大する中、ロシアとウクライナの双方で軍人の徴用に職業軍人だけでは済まなくなり、しだいに個人や民衆に対して参加を求め(あるいは強い)ることになりました。その結果、戦死者・負傷者(生活面での苦痛を伴う関与)を含め、国民全体へと甚大な被害を拡大させることになりました。
一般的に、過去の様々な戦争では、戦争に至るまでの各国の状況には「戦争に勝利する」との美名のもと、権力者による個人への抑圧、隷属、搾取など非人道的で卑劣な支配を発生させています。今回のロシア軍の侵攻においても、ロシア国内では情報統制による「民意誘導」や、ロシア国内の「少数民族支配」などが指摘されています。
今回とりあげた聖書の箇所は、時のイスラエルの権力者やファリサイ派の指導者たちが、民衆のイエスを慕う支持の高まりの中、その存在に脅威を感じ、自らの蛮行を正当化するため民衆を巻き込んで起こした出来事と言えます。それは、始めは弟子一人のユダ「個人」の裏切りから始まり、次に罪のない民衆を悪意ある熱狂へと駆り立て、最後にはユダ以外のイエスの弟子たちに対して、本意とは違った「自己保身」へと走らせます。
現在のウクライナ侵攻では、こうした個人と国家・民衆間の「災いの構図」は基本的に変わらないのかもしれません。しかしながら、現代は「世界的なイデオロギー(民主主義と専制主義)の闘い」とも言われる中、エネルギーや経済・食料事情などが国家間の複雑な関係に影響を及ぼし、更に兵器の進化なども加わり、その脅威である「災いの構図」は世界規模に拡大し、さらに複雑化しています。
現代において「個人が強大な国家権力や世界情勢にどこまで抗うことができるのか」、それは私たち一人ひとりに突き詰められたとても重い課題です。時に誤った判断の民衆は、「剣や棒」を握って個人に向かって来ます。しかし、個人が強大な権力に対して、自らが正しいと信じる意見を主張し、様々な意見を集約して民意を形成していくことが、「災いの構図(戦争)」と対峙するうえで、極めて重要な基盤と考えます。
現在の私たち(日本人)は、幸いにも戦時下のウクライナのような厳しい状況にはありません。しかし、「平和は自分達の実際の生活の中で作り出し実現するもの」です。その実現が日常の平穏な生活にあるだけに、あえて意識し守り抜く意志が求められているものと考えます。
祈り
「在天の父なる御神様、私たちは平和の尊さを知りつつ、自らが戦禍などの災いを招いています。イエス・キリストはそうした愚かな私たちに対し、平和の形成に向けて日々知恵を与え、励まし、力づけていてくださることを感謝し、主イエス・キリストの御名により祈ります。アーメン。」