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10月28日(金)全学礼拝ー今出敏彦先生 (賛美歌BGM付)

2022.10.28
オンライン礼拝

奨励者:今出敏彦(欧米文化学科教授)

新約聖書:ローマの信徒への手紙 第3章9~25節(新共同訳)P.276

「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。

「正しい者はいない。一人もいない。

悟る者もなく、

神を探し求める者もいない。

皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。

善を行う者はいない。

ただの一人もいない。

彼らののどは開いた墓のようであり、

彼らは舌で人を欺き、

その唇には蝮の毒がある。

口は、呪いと苦味で満ち、

足は血を流すのに速く、

その道には破壊と悲惨がある。

彼らは平和の道を知らない。

彼らの目には神への畏れがない。」

さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」

奨励:正しい者はいない。一人もいない。

 

 

 私は今年の連休明け、持病の三叉神経痛が悪化し、目を開けることさえできなくなりました。休講を続けて治療しておりましたが、それでも痛みはおさまらず、M R I診断の結果、持病に加えて多発性硬化症という難病の疑いも出てきたため、精密検査に2週間、入院することになりました。

 実はこれに先立つ4月末、母が慢性硬膜下血腫で倒れ、同じ病院で入退院しておりましたので、私は母と入れ替わりの入院となりました。

 三叉神経痛は自殺病とも呼ばれています。痛みの恐怖に耐え、外光の刺激を避けてカーテンを閉め切ったベッドで目も開けられず、動くこともできず、時折病室の天井を眺めるだけの毎日を送る中、当然ながら否定的な考えばかりが頭に浮かび続けました。

目は開くのだろうか、もし開かなければ生活はどうなるのだろうか。これで人生が終わるのだろうか。私だけでなく、母にも及ぶ病苦に何の意味があるのか。自分達は何か悪い事でもしたのだろうか…

 そう思いながら入院一週間が過ぎ、変化がありました。処方された薬の効果により、目が開くようになったのです。そして精密検査の結果、今後も経過観察が必要だが、難病と認める大きな症状は今のところ見受けられないと、担当医師から言われました。こうしてやっと退院許可が下りました。

 職場復帰の前に暫く自宅で安静に過ごす間、聖書を手に取りました。この度の病苦と回復を振り返るためです。その時、目に留まったのが、「正しい者はいない。一人もいない。」の聖句でした。

 このローマの信徒への手紙の箇所は旧約聖書の詩編とイザヤ書からの言葉です。私はこの箇所を読み返しながら、先程の「私と母の病苦に何の意味があるのか」という問いをもう一度考えてみました。もし、私達の病苦に「何か意味がある」なら、まるで私達が「善い人」であり、そのために「苦しみを受けた」と考えられます。そしてあたかも苦しみの後には神様から祝福を受ける特別な人物のように、自分を買いかぶってしまうかも知れません。

それで私は、「私達の病苦には意味がない。」と考えることにしました。「正しい者は一人もいない」からこそ、イエス様はその罪を償って下さったのです。そしてそのお陰で、私達の病が癒やされたのではないでしょうか。

 私は正しいものではありませんでした。だからこそ、イエス様のお恵みを頂くことができました。私はこの度の出来事を、今はこのように受け止めています。

 

 

祈り

「天の父なる神様、前触れのない病苦によって私達は心を迷わせ、とっさにその原因と報いを求めてしまいます。しかし、浅はかな自分本位の考えではなく、この世の罪を償って下さったイエス・キリストを救い主と信じることによって、私たちの罪を取り除くことが出来るようにして下さい。この小さき祈り、私達の救い主、イエス・キリストの御名によって御前にお捧げ致します。アーメン。」