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7月22日(金)全学礼拝 (賛美歌BGM付)
奨励者:関根清三(総合研究所特任教授)
新約聖書:マタイによる福音書 第22章36~40節(新共同訳)P.44
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
奨励:父の「無信仰の信仰」について
旧約聖書学者で、無教会の伝道者でもあった父・関根正雄は、晩年自分の信仰は「無信仰の信仰」だということをよく語っていました。その意味は大体次のようなことです。
父は20代のころ、塚本虎二先生の集会で他人に対してなかなか心を開けず、「隣人を自分のように愛しなさい」という聖書の戒め(マタイ福音書22章39節)を守れない自分の罪に苦しみました。然しある時、その罪を贖う十字架を仰いで、がらがらとその苦しみが瓦解することを経験し、さらにそのことを集会で告白せよという、死んでもいやだと思っていた課題を神からの命令として聴き、これに従ったとき世界が根底からひっくり返ったという体験をしています。これが最初の回心でした。ここで神は、命令する声として現れたわけです。
然しその後、40代となり、仕事にうつつを抜かす余り、神のことがおろそかになって、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(同22章37節)という、もう1つの、そしてより重要な戒めを守っていない自分の罪に気付き愕然とします。父は生涯、受験勉強のような勉強態度を持した人で、例えば電気屋にTVを買いに行って我々がどれにしようか探していると、これでいい、これでいい、と声を荒らげ、自分の勉強時間をそがれることを極端に嫌うヘキが抜けませんでした。たとい聖書の勉強であれ伝道の仕事であれ、仕事自体が面白く、それをひたすら追求するようになると、神を愛することがおろそかになる、そういう絶望的な罪に、いたく気づかされたわけです。20代の罪の自覚においては、神は声として現れた。然しこの40代の罪の自覚においては、神は隠れたままで、父は神を見失った絶望に行き着いたのです。
そのとき父はもう一度、十字架を仰いだ。そして、イエスの末期の叫びが「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(我が神、我が神、なんぞ我を見捨てたまいしか)」(同27章46節)であったことに気が付きました。そしてそこに福音の核心があることを発見したのです。イエス自身が神を見失った絶望にまで落ちてくださった。そのイエスにすがって、神を愛する心もなく神を見失ってしまった絶望的な自分の罪は辛うじて贖われる、そういう福音の再発見に至ったというのです(「福音の再発見」『関根正雄著作集』第一巻43-4頁、また478頁)。
この間の事情について、関根正雄はこれ以上詳しく語っていませんが、論理的に推測すると、こういうことになるでしょうか。AさんがBさんの罪の贖いをするためには、Bさんが受けるべき罰をAさんは十全な形で受けなければならない。ところがAさん、すなわち、ここではイエスが、生前自分の十字架刑に、Bさん、すなわち、人類の、罪を贖う贖罪的意義があると考えていたら、それは肉体的には苦しいでしょうが、精神的には大きな希望があるに相違ない。そういう贖いだったら、神を求めることすらできない絶望的な罪に見合うだけの絶望的な罰を負ったことにならないのではないか。ところが実際はイエスは生前、自己の死の贖罪的意義について中心的にはほとんど語っていないのです(この点の学問的論証について興味のある方は、昨年上梓した拙著『旧約における超越と象徴』増補版、東大出版会、538頁以下をご参照ください)。また「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」が出て来る詩篇22篇全体は神讃美なので、イエスは冒頭の一句を引いて絶望ではなく希望を語ったのだという解釈もありますけれど、これでは、この切羽詰まった状況の中で文学的表現を弄したこととなって理に落ちすぎるでしょう。とすると、これはそのまま素直に、イエスの行き着いた絶望を指すと解し、然しだからこそ、神を見失った我々の絶望的な罪をも贖う衝迫力を有するのだと、このように解すべきではないでしょうか。
ニヒリズムの空転と停滞に長く苦しんだ私自身、こうした推測を交えて、父の晩年の、神を愛する信仰もない「無信仰」だからこそ、神を見失ったエリ・エリ・レマ・サバクタニにまで落ちたイエスの十字架にすがり、そこに至ってやっと辛うじて「信仰」が蘇るという逆説に、心を揺さぶられるのです。
その先のことについても、父は余り語っていませんが、私自身はここを起点として生活がガラリと変わることにこそ意味があると思っています。つまり、≪神は、そのひとり子を、神を見失うどん底にまで落とし、その贖いによって、神を愛する心さえ萎えていた人間の愛を、再び蘇らせてくださった。そこまで人を愛する神の愛に駆動されて、この愚昧にして不敏な私も終に神への愛の応答に目覚め、それはそのまま神の愛する他者(差し当たっては隣人であり、他の人々ですが、神が創造によって「良しとされた」(創世記1章)天地万物をも含むでしょう)への愛に覚醒することと連動する。そしてこの他者への、心浮き立つような愛の関係性の中に、また逆に愛なる神の臨在を感ずる。そうした意味で、無信仰の信仰は個人的な罪の赦しの観念性を超えて、日々の生活のなかで他者に開いた愛の行為へと生き生きと具体化するのだ!神と人を愛せという聖書の根幹が、ここに具現するのだ!≫と今わたしは、このように考えています。そして父が蒔いた種が、私のような石地や茨においても、少しは実を結んだこと(マタイ福音書13章)に、感謝するのです。
祈り
「神様、今年の3月、図書館に「関根文庫」という一室が設けられました。関根正雄の蔵書のうち貴重なものを寄贈し、広く社会にお役立ていただきたいという年来の思いが、清水正之学長、土方透図書館長、そして図書館のスタッフの皆さまの御尽力によって、ここに結実し、息子として感謝に堪えません。この機会に、その父のキリスト教信仰の核心が何であったかを改めて想い起こし、そこに思いを馳せる機会を与えられ、これまた心から感謝申し上げます。そして愛ではなく憎悪が氾濫している世界の困難を極めた状況のなか、この信仰に1つの希望を託して進んでいくことができますよう、願いたてまつります。この感謝と願いを、イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。」