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7月19日(火)全学礼拝 (賛美歌BGM付)  

2022.07.19
オンライン礼拝

奨励者:和田光司(欧米文化学科教授)

新約聖書:ローマの信徒への手紙 第3章23~26節(新共同訳)P.277

「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」

奨励:『鎌倉殿』に思うこと

 

 

 今、NHKの大河ドラマでは「鎌倉殿の13人」を放映しています。三谷幸喜氏の巧みな脚本に惹かれて、私も見ています。中心人物の源頼朝は、自分の権力の確立のために、卑劣な手段で身内や味方でさえも次々と殺害していくのですが、それを見るたびにつくづく気が重くなり、何ともやるせない気分になります。頼朝がそのような討伐を家臣に行わせながら、その一方で仏像に向かって一心不乱にお経を唱えている姿がたびたび映し出され、それがとくに印象的でした。彼が漠然と自責の念に捕らわれていることは推測できるのですが、三谷幸喜氏はドラマの中でそのような悪行に対する仏教の倫理的な規範をはっきりとは示していません。頼朝について「何が、なぜ許されないのか」、「では、どうすればよいのか」は曖昧なままであり、結局、頼朝は深い諦めの中で「仕方がなかったのだ」と語るのですが、視聴者も、そして頼朝自身も、何かすっきりせずに、もやもやとした気持のままで終わってしまうようです。もし、それらの行為が「仕方がなかった」とすれば、誰がどのようにしても同じ結果になるということであり、人間とはつくづく罪に深く染まっており、どうやってもその中でしか生きることができない悲しい存在、ということになるでしょう。

 頼朝が傷つけたのは被害者である人々ですが、はたしてそれだけでしょうか。目にとまりにくいことですが、罪は相手を傷つけていると同時に、実は、罪を犯した人、その人自身をも深く傷つけているのではないでしょうか。心の深い所で、自分自身への嫌悪や不信が生まれてくるでしょう。また、周囲の人たちにとっても、彼らが「良心」により心の中で大切に思っていることが否定されることになり、傷つけられます。そのように、罪は周囲との信頼関係をも失わせるでしょう。頼朝は、晩年人が信じられずに深い孤独に陥り、また心の平安を失っていきました。しかし、そのような罪の世界は、頼朝ほどではないかもしれませんが、私たち自身とも決して無関係ではないのではないでしょうか。

 頼朝は天罰を恐れますが、逆に「天罰が起こらなければ、自分は天に赦されているのだ」と考え、それらしき事が起こるまで、行動を改めようとはしません。しかし、はたしてそうなのでしょうか。聖書によれば、すでに天罰は下されているのではないでしょうか。それは、神の御子のイエス・キリストが私たちの身代わりとして十字架につけられる、という形でなされました。それにより、神の「義」、すなわち正しさが示され、同時に私たちへの「愛」が示されています。イエス・キリストの血は、私たちをすべての罪から清める、と聖書にはあります。頼朝が求めていたかもしれない「罪の赦し」は、存在するのです。イエス・キリストにより、「罪の支配」とは異なる世界が開かれていることを覚えたいと思います。

 

 

祈り

「イエス・キリストの父なる神様。頼朝に限らず、私たち人間は深く罪深い存在です。イエス・キリストの十字架により、私たちに罪の支配からの解放への道を開いてくださったことに、心から感謝します。御子イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」