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7月13日(水)全学礼拝 (賛美歌BGM付)

2022.07.13
オンライン礼拝

奨励者:菊地 順(政治経済学科特任教授)

新約聖書:マタイによる福音書 第6章25~34節(新共同訳)P.10

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

奨励:今日、最善を尽くす

 

 

 イエス・キリストは、いつも貧しい人たちと一緒でした。初め、家を離れ、「洗礼者ヨハネ」と呼ばれた指導者と共に生活を始めたとき、ヨハネは「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物にして」、荒れ野で生活していました。そこは、神殿のある都エルサレムからは遠く離れたところでした。神殿には、毎日多くの生贄(いけにえ)や穀物が罪の赦(ゆる)しを得るために捧げられていました(そのため、そこにはたくさんの食物がありました)。しかし、ヨハネは、あえてその神殿から遠くはなれたところで生活したのです。それは、そうした犠牲を捧げることでは、本当の救いは得られないと考えたからです。ヨハネは、本当の救いは、悔い改めて神に立ち返ることにあると考え、神殿を離れ、荒れ野で貧しい生活をしながら、そのことを人々に訴えたのです。そして、イエス・キリストも、その考えに従ってヨハネと生活を共にしました。そして、時至って、ヨハネから独立したのです。そして、同じように、人々に悔い改めを語りました。そして、語っただけではなく、人々を罪の捕らわれから解放していったのです。

 しかし、イエス・キリストの生活は貧しいままでした。それは、何よりも、イエス・キリスト自身、神殿を中心とするユダヤ教の主流から距離を取ってガリラヤという地方で活動しただけではなく、ユダヤ教から見捨てられた人たちと生活を共にしたからです。そして、その多くは貧しい人たちでした。というのも、その人たちは、主流から締め出され、社会の底辺に生きていた人たちであったからです。そのため、その人たちは、いつも「何を食べようか」、「何を飲もうか」、「何を着ようか」と思い悩んでいました。そして、そういう人たちに、今日の聖書個所で、イエス・キリストは、「思い悩むな」と語り掛けたのです。

 イエス・キリストは、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」と語りました。今日、十分な食べ物も飲み物も着る物もない人たちに、そう語ったのです。食べ物も飲み物も着るものも、生命にとって欠くことのできない大切なものです。そのために、私たちは日々労苦しています。確かに、そうしたものは、日常生活が順調に進んでいる時には、あまり意識しないかもしれません。しかし、健康を損ねて働けなくなったり、失業して収入がなくなったりすると、その窮乏はすぐに現実のものとなります。また、戦争や自然災害などで日常生活が奪われてしまうと、たちどころに窮地に追い込まれてしまいます。一見、安全に見える生活の中にも、そういう破綻が潜んでいます。しかも、イエス・キリストの目の前にいた人たちは、そうした深刻な欠乏に日々直面していたのです。「何を食べようか」、「何を飲もうか」、「何を着ようか」という困窮に直面していたのです。そして、その困難は、またすべての人に潜在的に存在するものなのです。そうした存在の根底が失われるような窮乏が、この世界にはあるのです。ある人は、それを「無」の脅かしと表現しました。生きているということ、この世に存在しているということは、実は、この「無」の脅かしの中にいることなのだと語ったのです。そして、「無」の究極は死です。その意味では、存在は絶えず死の脅かしに中にあるのです。また、だからこそ、人間は不安を感じるのです。そして、日々の生活の中で、しばしば思い悩むのです。

 しかし、イエス・キリストは、思い悩むなと語りました。なぜなら、わたしたちを、その根本から生かしているのは、わたしたち自身ではないからなのです。そうではなく、それは、わたしたちに命を与え、その命を養っている方が他におられるからなのです。その方を、イエス・キリストは「父なる神」であると語りました。父なる神こそ、わたしたちに命を与え、それを養われる方なのです。その証拠に、空の鳥を見てみなさいと語りました。野の花を見てみなさいと語りました。空の鳥も野の花も、自分自身で自分を養い育てているのではなく、養い育てられているのではないか、と語ったのです。そして、それは、すべてのものに命を与え、それを養う父なる神がおられるからだと語ったのです。だから、あたかも自分自身で自分に命を与え、それを養うかのように、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い悩むなと語ったのです。そして、何よりも大事なことは、わたしたちに命を与え、それを養ってくださる父なる神ご自身を求めること、その父なる神に信頼することだと語ったのです。それが、「まず神の国と神の義とを求めなさい」という言葉なのです。

 しかし、イエス・キリストは、ただ父なる神を求め、父なる神に信頼しなさいと言っただけではありません。神に任せればすべてが解決すると言ったのではありません。イエス・キリストは、最後にこう語っています。「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」。イエス・キリストは、「明日のことまで思い悩むな」と語りました。それは、逆に言えば、今日には今日の思い悩みがあるということです。一方では、思い悩むなと語りながら、他方では、今日の思い悩みを荷いなさいと語るのです。それは、その思い悩みを、父なる神を信頼する中にあって、しっかりと荷いなさいということでもあります。それは、一見矛盾するように思えるかもしれません。しかし、神に信頼する時、思い悩みは変わるのです。それは、一方的に、わたしたちを苦しめる苦悩から、落ち着いて前向きに取り組むことのできる苦悩、あえて言えば課題へと変わるのです。一方的な悩ましい苦悩ではなく、積極的に取り組むべき課題へと変わっていくのです。そして、そのように心が定まるとき、力も与えられて行くのです。だから、今日の苦労をしっかりと荷いなさいと語るのです。それが、イエス・キリストが語った生き方です。それは、もっと簡潔に言えば、父なる神に信頼して、「今日、最善を尽くす」ということです。そして、その積み重ねが幸いな充実した人生へと至るのです。

 思い煩うのではなく、わたしたちを養ってくださる神を信頼し、その信頼において、「今日、最善を尽くす」。そのとき、わたしたちは、ただ思い悩み、迷いの中を逡巡するのではなく、なすべきことに向かってまっすぐに力強く歩み出していくことができます。そして、その実を豊かに得ていくことができるのです。間もなく春学期を締めくくる試験期間を迎えますが、今日は、このイエス・キリストの教えを心に留めたいと思います。

 

 

祈り

「主イエス・キリストの父なる御神、春学期の生活がこのところまで守り支えられておりますことを感謝いたします。しかし、未だにコロナの脅威があり、またウクライナでは多くの人たちが絶望と苦しみの中におります。どうか、特に為政者たちが人類全体に対する責任を深く自覚し、良心に基づく歩みができますように、導きをお与えください。またわたしたちも、あなたに信頼する中にあって、なすべき務めをなしていくことができますよう、強め導いてください。主イエス・キリストのみ名によって、お祈りいたします。アーメン。」