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6月28日(火)全学礼拝 (賛美歌BGM付)

2022.06.28
オンライン礼拝

奨励者:清水均(日本文化学科教授)

新約聖書:テモテへの手紙一 第1章3~7節(新共同訳)P.384

「マケドニア州に出発するときに頼んでおいたように、あなたはエフェソにとどまって、ある人々に命じなさい。異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。ある人々はこれらのものからそれて、無益な議論の中に迷い込みました。彼らは、自分の言っていることも主張している事柄についても理解していないのに、律法の教師でありたいと思っています。」

奨励:良心という存在-愛を目指すもの-

 

 

 アニメ『機動戦士ガンダム』の新作劇場版『ククルス・ドアンの島』の上映にあたって、監督の安彦良和(やすひこよしかず)氏はインタビューに答えて以下のように語っています。

 「愛するものを力で守るという大変勇ましく美しいテーマでポジティブに描かれることが多いんですけれども、これって非常に危ういテーマなのね。で、これは相手が増強したらこっちも増強しなきゃ、そういうイタチごっこになる。これは結局解決のないエスカレートだと思う。これに対して“いや これちょっと待てよ”ということがなかなか言えなくなっちゃう。力で守ることが全面的にポジティブに考えられていていいんだろうかというのがひっかかった部分で、これはやはりどうしても考えざるを得ない問題なんじゃないか。」

 この安彦監督の言葉に対して私は、一般論として、理屈として、理想としては頷けます。しかし、一人の傲慢な権力者によって、一方的に攻撃される側に立てば、それは容易には頷けるものではなくなります。勿論私は今のロシアによるウクライナ侵攻のことを話しているのですが、日々これに関するニュースに触れる度に私は大きな悲しみと憤りを禁じ得ません。特に、憤りの感情については「何故こんなに怒りを覚えるのか?」と、ある意味自分でも不思議に思えるほど大きいものがあります。

 今回の侵攻を語る時、ここに到るまでの歴史的経緯について指摘するメディアもあり、無論私も「ロシアが侵攻された歴史」があることについてもそれなりに知識としては持っていて、そのことについては一定の理解は出来ます。あるいは「歴史的文化的にロシアと一体であるはずのウクライナが西側に支配されている。人々を救い、この文化圏を守らなければならない」ということをプーチンが本気で信じているらしいことについても、「一人の狭量で倒錯した歴史観に縛られた人間の<信念>」として見過ごすことが出来ないわけではありません。では、私は何に対して憤っているのか。それは取りも直さず「権力」を持った人間の愚かで傲慢な振る舞いに対してということになります。

 先日「世界ふれあい街歩き」というNHKの番組で2019年のキーウ(キエフ)の街の映像が流されました。そこには美しい街の風景と苦難を乗り越え蓄積された様々な伝統とに包まれながら日々の生活を営む沢山の人々の姿がありました。そのような人々をプーチンは一方的に破壊し、陵辱し、命を奪いました。このことに対して私は「理解」を示すことや「見過ごす」ことは到底出来ません。「権力の横暴」がもたらす「人の命(心身の)」への陵辱を許容する理由を私は持ち得ません。しかし、私の憤りはそのような「暴力」に向けられるのに留まりません。彼はその「暴力」を正当化するために情報操作や嘘によってロシア国民すらも欺して、自らの側に付けようとしています。私の憤りは、特にこの「権力を利用して人間を愚弄する」その下品で卑小な醜悪さ、言い換えればその「悪意」に向けられているということが出来ます。

 けれども、こうした「権力による悪意」というのはひとりプーチン個人に留まらず、歴史的にも繰り返され、そして今でもいくつかの国において目にすることが出来ます。はたまたプーチンほどではないけれども何らかの「権力」によって抑圧され、心身が損なわれるということを、私たちの身の回りでも目にするのではないでしょうか。「プーチンなる者」はいつでもどこでも出現し得るし、私たちはいつでもその「悪意」に晒される可能性があるのです。では、私たちはそのような「悪意」に対して、どのように対処し、何を「楯」とすれば良いのでしょうか?

 これは本当に困難な問題だと思います。正直に言えば、今私には解答といえるものを持ち合わせてはいません。ただ、一筋の光として見えるのは「悪意」の反対語としての「善意」、ひいては「善意」を生み出す人間の「良心」という存在です。

 聖書には「良心」という語が私が調べた限りでは29箇所あるようです。本日の聖書の箇所である「新約聖書:テモテヘの第一の手紙」はその一つです。 確認してみましょう。

 驚くべきことに、この文章全体の内容があたかも今のロシアによるウクライナ侵攻そのものを記しているようです。「異なる教え」「作り話や切りのない系図」の存在、そしてそれらが「信仰による神の救いの計画の実現」ではなく「無意味な詮索を引き起こす」こと。更には「自分の言っていることも主張している事柄についても理解していないのに、律法の教師でありたいと思って」いること。けれども、そのような振る舞いの反対に「清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すもの」が位置づけられており、それがそうした振る舞いを凌駕するものとして説かれていることが私たちに希望を与えてくれます。

 「権力」による抑圧に苦しむこと、「権力」によって心身が損なわれることというのはとても「理不尽」です。本来そのようなことはあってはならないことです。にも関わらず、生きていることは時にそのような「理不尽」を避けられないこともあります。その時私たちは何が出来、何を拠り所とすれば良いのでしょう。

 本日の聖書の示唆するものは、その微かな光として私たちの心に寄り添ってくれるものではないでしょうか。

 

 

祈り

「ご在天の父なる神様。今日という日を生きる支えを与えてくださっていることに深く感謝します。主よ、今世界の情勢は争いがもたらす悲しみや苦しみや怒りに満ちていると感じます。特に日々伝えられるウクライナ情勢については、直接的な当事者ではないかもしれませんが、多くの人々が心を痛めています。そして、その「心の痛み」はウクライナ情勢を越えて私たちが生きる中での理不尽な出来事に思いを到らせます。このような「理不尽さ」に対し、私たちは無力で、ただそれに耐え忍ぶことだけでは生きている意味すら見失ってしまいます。しかし、幸いにもあなたは御言葉の中で明確に「良心」の価値を語っていて下さいます。勿論それは私たちの「心の痛み」における直接的な解決法ではないかもしれませんが、大いなる慰めを与えて下さっています。人生で避けることが出来ないかもしれない「理不尽さ」に対し、「良心」を持ち、愛を目指すことにおいて毅然として生きて良いと語って下さっています。そのことをささやかで、しかしながら強い心の支えとして今日という日を歩んでいけるように、切なる願いとして御前にこの小さき祈りをお捧げいたします。アーメン。」