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6月17日(金)全学礼拝 (賛美歌BGM付)

2022.06.17
オンライン礼拝

奨励者:寺嶋健一(キャリア支援課職員)

新約聖書:マタイによる福音書 第6章6~9節(新共同訳)P.9

「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。」

『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。』

奨励: 神へのよびかけ-父よ

 

 

 私は2022年3月31日をもって聖学院大学での33年間の勤務を終え、定年退職いたしました。しかし、予想もしなかった事情により、現在期限付き嘱託職員として勤務を継続しております。昨年度も全学礼拝で奨励をさせていただく機会が与えられ、その時は退職する予定でしたので、「終わりに」と言う奨励題をつけさせていただきましたが、今回は「初めに」と言うことに注目して奨励させていただきます。

 「初めに、神は天地を創造された」。これが旧約聖書の初めの言葉です。初めとはいつでしょうか。全ての初め、時が動き出す初めと言うことです。全てを創造される神は、世界の歴史の中にも介入され、時を動かします。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」と、新約聖書の初め、マタイによる福音書には記されていますが、これは明らかに神が人の歴史に関わり、計画の中でイエス・キリストがこの世に誕生された徴だと思います。このイエス・キリストの系図に登場する人物は、清く正しく美しい人の系図ではありません。兄弟を欺いた者、娼婦のような女性、当時は親交のなかった外国人女性、他人の妻を奪った者、様々な人がこの系図に登場します。そして系図の終わりの方に登場する女性は未婚の女性です。未婚の女性がイエス・キリストの母になるのです。

 イエス・キリストが誕生する頃、皇帝から全領土の住民に登録をせよとの勅令が出されました。これが最初の住民登録でありました。それにより、ヨセフとその婚約者マリヤは、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムへ登録のため旅立っていきました。そこで、マリヤは男子を出産します。しかし、これが偶然なのでしょうか。いや預言者が預言していました。「エフライムのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さい者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」。永遠の昔に約束されていた救い主は、ベツレヘムに生まれると預言されていたのです。最初の人口調査という人の歴史、ベツレヘム、全て神が介入し定められた時であり、場所ではないでしょうか。

 では、なぜイエス・キリストをこの世に誕生させる必要があったのでしょうか。それが「初めに、神が天地を創造された」ことと関わるのです。神は創造されたものを見て「良し」とされました。そして神はご自分にかたどって人を創造され、祝福しました。神は創造されたすべてのものをご覧になりました。それは、極めて良いものでした。初め人は神のもとに生かされるものでした。しかし、人は神に背くものになってしまったのです。神に対する背き、これが罪というものです。神の律法が人に与えられました。また、罪を回避するため人は様々な努力をします。贖罪のため生贄の動物のささげものをします。しかし、人には自力で罪を無くすことはできませんでした。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」。これは使徒パウロの嘆きです。「初め」があれば必ず「終わり」があるのです。「終わり」とは、神の審判の時です。このままでは、誰が神の審判を免れることができるでしょうか。しかし、神は人を滅ぼすことを望まれませんでした。そこで御子なる主イエス・キリストを世に送られたのです。それは、預言者が預言されるよりもずっと以前に、神が計画を定められていたのです。

 主イエスは人々に祈りを教えました。神への祈りは人に見せびらかすために行うものではありません。だから、人に見せるためではなく神に向き合って祈りなさい。その祈りは長々と立派な言葉で祈らなくても良いのです。神はあなたが祈る前から、あなたに必要なものをご存じなのです。あなたに必要なものとはあなたの思い通りになる都合の良いものではありません。時には苦しいこと、辛いこと、忍耐を必要とすることがあるでしょう。自分勝手な願い求めをしないでください。主イエスが十字架につけられる前、ゲッセマネで何と祈られたかご存じですか。「この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願い通りではなく、御心のままに」。神の「御心のままに」。それは時を超え、ところを超え、全ての人の罪を神が帳消しにするためにです。そのためには、律法ではなく、動物の生贄でもなく、どうしても主イエス・キリストの十字架が必要だったのです。

 さて、主イエスが教えた主の祈りは、神への呼びかけから始まります。「天にましますわれらの父よ」。天地を創造し、時を支配される、計り知れない偉大なる神、聖なる神よ。その神を「父」と呼ぶのです。何と畏れ多いことでしょう、また幸いなことでしょう。それもこの父という呼び方には、幼い子どもが自分の父親を呼ぶように、つまり子どもが「パパ」とか「父ちゃん」と少し甘えるように、親しく呼びかけることが許されたのです。

 第二次世界大戦が終わるまで、天皇陛下は神だと言われていました。その天皇陛下に「パパ」とか「父ちゃん」などと呼ぼうものなら大変なことになったでしょう。しかし、主イエスは人々に神を子どもが甘えるように親しく「パパ」、「父ちゃん」と呼びなさいと教えるのです。それは「遠き神」、「近寄れなかった神」が、主イエスによって「近き神」、「父なる神」になった徴なのです。先ほど嘆いたパウロは言います。「今やキリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることがありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」。

 自分勝手な思いを願い求めるのではなく、あなたを導かれる神の思いを知りなさい。時には与えられる忍耐によって、あなたは成長することができるのです。また、力を合わせることや人を愛することを学べるのです。祈りとは神の思いを聞くことです。神の御心がなされるように、「主よ、お話しください。僕は聞いています」と祈りなさい。だから、子どもが父親に聞くように、偉大なる神に対して、親しく「父よ」と、まずよびかけるのです。

 

 

祈り

「全ての初めから、全てを知り、全てをおさめられる父なる神様。人の知恵によらず、行いによらず、ただ恵みにより、身元に招かれている幸いを感謝いたします。世界は今、悲しみがあり、平和を脅かす不安があり、私たちは何をすべきか分からないことばかりです。しかし、平和を実現する人々は幸いですと教えていただきました。そして、私たちが「父よ」と呼びかけることを許してくださいました。私たちがあなたの恵みに応え、為すべき知恵と勇気をお与えください。一人一人の祈り、願いと共にただ一人の救い主、イエス・キリストの御名によりお祈りいたします。 アーメン。」