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6月3日(金)全学礼拝

2022.06.03
オンライン礼拝

奨励者:木村太郎(心理福祉学部兼人間福祉学部チャプレン)
新約聖書:ルカによる福音書15章11-24節(新共同訳)P.135

 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

奨励:放蕩息子の父親のたとえ

 

 主イエス・キリストは、1つのたとえ話をお語りになりました。聖書の中で最も有名なたとえ話の1つである「放蕩息子のたとえ」と呼ばれるものです。キリストはそれを「ある人に息子が二人いた」(11節)と語り始められます。
 2人の兄弟がいて、弟の方が父親の財産の生前分与を願い、父親はその願いを受け入れます。そして弟は、「何日もたたないうちに、・・・全部を金に換えて、遠い国に旅立」つのです(13節)。彼はなぜ急ぐようにして遠い国に旅立とうとしたのか、その理由は分かりませんけれども、父親の下から離れることにこそ、本当の自由があると思ったのではないでしょうか。
 しかし、彼はそこで自由にいきいきと生活したのではありませんでした。得た財産を使い果たし、食べることにも困り果てる状態に陥り(13-14節)、不自由の極みに置かれるのです。彼はそのどん底で、「我に返って」(17節)父親から離れようとした自らの歩みを省みます。そして、それが実に自己中心的であったことに気づかされるのです。ついに彼は、父親の元に帰る決断をします。それは、自らが「もう息子と呼ばれる資格」(19節)などないことを知った上での決心でありました。
 しかし実は、父親はそのような息子の帰りを待っていたのです。彼のために毎日祈っていたのではないでしょうか。なぜなら、息子の姿を遠くに見た父親は、「憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(20節)からです。それだけではありません。父親は、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」(24節)と言い、祝宴さえ催すのです(22-23節)。
 このたとえのハイライトは、放蕩の限りを尽くした息子が、そのどん底から父親の元に帰るという一大決心をしたところにあるように思えます。確かにそれはハイライトの1つです。しかし、キリストがここで一番お語りになりたかったのは、父親の姿です。
 それは、このたとえが「一人の放蕩息子がいた」と始まっていないことに表れています。キリストは、「ある人に息子が二人いた」(11節)と語り始められたのです。「ある人」、つまり父親です。つまりこれは、父親のストーリーなのです。言い換えれば、「放蕩息子のたとえ」ではなく、「放蕩息子の父親のたとえ」なのです。
 それでは、ここでの父親の姿とは一体何でしょうか。それは、父なる神さまの姿です。わたしたち1人ひとりに命を与えてくださった天地の創造主なる方です。
 わたしたちは本来、その命の与え主の下にあってこそいきいきと生きることができるのです。けれども、時に神さまなしにやっていけると思うのです。神さまから遠く離れ、神さまの下にいない方が自由であると思うのです。まさに放蕩息子のような姿がわたしたちにもあるのです。
 にもかかわらず、そのようなわたしたちをいつも待っていてくださる父なる神さまがおられるのです。そしてこの礼拝こそ、その方について繰り返し知らされる時なのです。礼拝はわたしたちの側から足を運ぶものです。対面礼拝は勿論のこと、オンライン礼拝においても、キリスト教センターのホームページに、わたしたちの側からアクセスするのです。礼拝が自分のところにやって来ることはありません。わたしたちが一歩踏み出す先にあるのが礼拝です。
 そしてこの礼拝とは、父なる神さまの元に帰るということではないでしょうか。遠い国に旅立った息子が我に返って父親のところに帰ったように、わたしたちもまた、それぞれのところから礼拝に向かうことを通して父なる神さまの元に帰るのです。そして、そこでの聖書の言葉を通して、わたしたちをいつも待っていてくださる方がいることを知らされるのです。
 待ち望んでいてくださる方がいるというのは、その方がいつもわたしたちを覚えていてくださり、祈ってくださっているということです。それは何事にも代え難い励ましです。その励ましがあれば、喜びをもって自由にいきいきと生きることができます。
 この全学礼拝を通して、繰り返しその励ましをいただきつつ、残り2ヶ月の春学期の歩みを1つひとつ進めていくことができるよう、共に祈りを合わせたいと思います。

 

祈り
「憐れみ深い天の父なる神さま、春学期が半分過ぎ、充実した大学生活を送っている人、一方で疲れを覚え悩みの中にある人もいます。それぞれを深く顧みてください。この全学礼拝の時を通して、あなたがわたしたち1人ひとりを覚え、祈ってくださっているという励ましを与え続けてください。この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」