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6月16日(木)全学礼拝 (賛美歌BGM付)
奨励者:吉岡光人(日本キリスト教団吉祥寺教会牧師、本学講師)
新約聖書:使徒言行録 第3章1~10節(新共同訳)P.217
「ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。」
奨励: 誇りをもって生きよう!
イエスが十字架刑で殺された時、イエスの弟子たちは、みな怖くなって、イエスを見捨てて逃げてしまいました。ペトロも逃げてしまいました。そればかりか彼は「わたしはイエスなどという人のことは一切知らない!」と嘘をついて自分の身の安全を守ろうとしました。自分に自信のあったペトロのこの時の挫折感は相当なものでした。
使徒言行録3章の場面は、そのペトロが聖霊を受けて癒しの奇跡を行った箇所です。エルサレムの神殿の境内に生まれつき足の不自由な人が座っていました。この人は生まれてからずっと、他人の憐みによる施しだけで生きていました。ところがある日、ペトロとその仲間がやってきました。ペトロは彼をじっと見ました。「お金をたくさんくれるのだろうか」と期待が高まりました。しかし、その期待は見事にはずれました。ペトロは一銭もくれませんでした。しかし彼はもっとすごいものをくれたのです。「金銀はわたしにはないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」こう言うと、ペトロは彼の手を取りました。すると彼は自分の足で立ち上がることができ、歩くこともできるようになったのです。自分の足で歩けるようになったこと、本当に嬉しかったことでしょう。この男の人は、ペトロの手を通して「神の憐み」を受けたのです。もうこれからは他人の憐みによる施しは必要ありません。誇りをもって、自分の力で生きて行くことができるからです。表現を変えれば、ペトロから金銀に優るプレゼント、「究極のプレゼント」をもらったということなのです。このプレゼントには「イエス・キリスト」という名前が刻まれていました。これからは、彼は他人の憐みを頼りに生きるのではなく、自立して、自分自身に誇りをもって生きられるのです。聖書における「癒し」とは、フィジカルな癒しだけでなく、内面から、つまりスピリチュアルな癒しでもあるのです。
この奇跡が起きたのは、一度は挫折し誇りを失っていたペトロが、キリストによって赦され、再び立ち上がることができたからです。だから彼は他者に対して、「憐みの施し」ではなく「イエス・キリストの名によって立ち上がりなさい」と言うことができたのです。神はわたしたち一人一人が誇りを持って生きることができるように力を与えてくださいます。そしてそれは、イエス・キリストを通して神から愛されている自分を発見することによって知ることができるのです。
祈り
「神さま、わたしたちは挫折したり失敗したりすると、誇りを失い、自分を価値のない人間だと思い込んでしまいます。あなたの愛、あなたの憐み、あなたの赦しを知ることによって、自分自身の生きる価値を見出すことができますように導いてください。アーメン。」